瀬を楽しむ恋人達には気の毒だが、せめては暗にも著しいこれらの茴香の匂ひ、橘の匂ひでも嗅がせたい。
[#ここから2字下げ]
山涼し少し蓮葉に裾あげて赤土坂を踏める夕立
[#ここで字下げ終わり]
赤土の坂道に山の夕立の降る光景である。さつと来てさつとあがる女の様な夕立だ。蓮葉に少し裾をかかげて赤土の坂を上つて行く。お蔭で涼しくなつたといふのであるが、夕立が赤土の坂に当つて泥がはね返り、もし人が通つてゐたら裾をよごしさうなので、それを避ける気持が動いて、「少し蓮葉に裾あげて」となつたものでもあらうか。兎に角さういふ場合の夕立の心持がよく出て居る。
[#ここから2字下げ]
一人はなほよし物を思へるが二人あるより悲しきはなし
[#ここで字下げ終わり]
この歌も既にクラシツクとして登録されてゐるものではないか。一人で物を思ふさへ辛いことだがなほ忍ぶべし、それを二人して同時に物を思ふとは何といふ悲しいことだ。斯う私が書き流してさへ面白いのであるから、外国語にも翻訳出来る。
[#ここから2字下げ]
こころみに都女を誘へりと霧のいふべき山の様かな
[#ここで字下げ終わり]
昭和六年九月の法師温泉吟行には夫人、近江夫人、高橋英子さん、兼藤紀子さんと四人の派手な都女が加はつて、当時電灯さへ点かなかつた奥山を驚かした。しかし霧の方から云へば逆で、都女を誘つたのは自分で、けふはどんな反応があるか一つためして見るのだ、きつと驚くに違ひないと云ひたさうに山を降りて来たのである。
[#ここから2字下げ]
限りなく思はるゝ日の隣なる物足らぬ日の我を見に来《こ》よ
[#ここで字下げ終わり]
これはもとより女から来た誘ひの手紙である。どういふ場合に来たものか、受取つた男になつて考へてごらんなさい。随分難渋な文句だから一つ分離して見よう。[#「。」は底本では欠落]限りなく思はれる日即ち大満足の日の次に物足らぬ日のあるのはよく分る。その物足らぬ日に来いといふなら、その前日も来てゐたのであるから、結果は毎日来いといふことになる。何だつまらない。毎日来いならさう云へばよいのに、こんな廻りくどいことをいふのは如何いふ訳だ。その答がこの歌である。
[#ここから2字下げ]
蟋蟀の告ぐる心を露台にて旅の女が過たず聞く
[#ここで字下げ終わり]
昭和六年八月六甲山上の天海菴に泊した時の作。山の上は既に秋で蟋蟀が鳴いてゐる、その訴へが旅の女にはよく分る、分りすぎる位よく分る。しかしその訴へが何であるかを歌は語らない。読者自ら聞いて知るべきであらう。
[#ここから2字下げ]
脚下《あしもと》の簪君に拾はせぬ窗には海の燐光の照る
[#ここで字下げ終わり]
海に臨むホテルのサロンで起つた極めて小さい出来事ではあるが、それが詩人に拾はれ不朽化されて音楽になる、さうするとこの歌になるのである。どうした拍子か簪が落ちた。それを男が拾つて差し出した。女はそれを受け取つて髪にさした。さうして窗から首を出して海を見た。海には燐光が燃えてゐた。しまりのない口語詩に直すとこんな風になる。
[#ここから2字下げ]
生田川白く長きと炎天と相も向ひて何となるべき
[#ここで字下げ終わり]
万葉の頃の生田川は少しは水も流れてゐたらうに、今見るそれは一本の長い白い沙の帯に過ぎない。それが夏の炎天の下で乾き切つて居る。この儘ではどうにもなりさうにない、その名の様に川などには断じてなれさうもないが、それでよいのであらうかとあやしむ心であらう。炎天下の生田川は私も知つてゐるが、これ以上何と歌へよう。
[#ここから2字下げ]
宿世をば敢て憎まず我涙いと快く涌き出づる日は
[#ここで字下げ終わり]
作者は仏教の因果観を信ずるものでないだらうから、現在が宿世の結果だなどとは思ふまい。ここで宿世といふのは従来の観念を借りただけで、ただ現状をといふほどの意味であらう。こんなに気持よく泣ける日はない。こんなことなら辛い悲しいと思ひ勝ちであつた現在の境遇も憎むには当らない気がして来た。果然快い涙も流れるのである。
[#ここから2字下げ]
教坊の楽《がく》と脂粉の香のまじる夏の夕に会へるものかな
[#ここで字下げ終わり]
昭和八年八月高野山の夏期大学の講義を終へた夫妻は大阪へ出て然る人の饗宴に列した、南地宗右衛門町の富田屋らしい。教坊の楽は芸者楽の支那名である。涼しい結界即ちいとも神聖な山から降りて来て暑い大阪の夏の夕に出会はした。しかもその夕たるや教坊楽とべにおしろいの交錯したいとも賑やかな華やかな夕で、我が上ながら急激な変化に驚く。歌によると当夜の板書中には艶千代、里榮、里葉、玉勇などの名が見える。
[#ここから2字下げ]
よそごとに涙零れぬある時のありのすさびに引合せつつ
[
前へ
次へ
全88ページ中51ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平野 万里 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング