#ここで字下げ終わり]
涙の多い作者のことであれば、自分には何の関りもないよそごとにも涙が零れたのであらう。別にいつの場合かに起つたひよつとした出来事を思ひ出すにも当るまいと思ふが、なぜかと反問すれば自分にもそれに似た些事があつたのだといふ訳なのであらう。
[#ここから2字下げ]
宝蔵の窗の明りの覚束な鳥羽の后の難阿含経
[#ここで字下げ終わり]
高野山のムゼウムの覚束ない照明をそしり、鳥羽院の皇后が難阿含経を手写し、高野に収めたものなども陳列されてゐるが、いかにも暗くて字体の鑑賞も出来ないと訴へるのである。高野山では親王院に宿られ沢山歌をよまれてゐるが余りよいのはない。
[#ここから2字下げ]
一人寐て雁を聴くかな味わろき宵の食事の幾時の後
[#ここで字下げ終わり]
一人寝の所在なさに聴き耳を立てると雁の声が聴こえて来た。それにしても晩の食事のまづかつたこと。夫婦生活十年の後に到達した境地である。昔は秋になれば東京の空にも雁の声が聞こえたのである。
[#ここから2字下げ]
亡き人の札幌と云ふ心にて降りし駅とも人に知らるな
[#ここで字下げ終わり]
この亡き人は有島武郎さんのことで有島さんは札幌出でもあり、又ここの大きな耕地を相続されたのを小作人に無償で分配して処分されたこともある。そこで亡き人の札幌となる。武郎さんと晶子さんとは暫時ではあつたが心と心と相照した間柄で、無言の恋をお互に感じつつそれも相当の程度に昂じたが遂に発せずに武郎さんは死んでしまつたのであつた。これは寛先生もよく知つてゐた事実である。併し人が誤解しないとも限らないから「人に知らるな」と断つたのである。しかし又面白さうにわざわざ人に吹聴してゐる気味もなくはない。
[#ここから2字下げ]
少女子の心乱してあるさまを萩芒とも侮りて見よ
[#ここで字下げ終わり]
ひどいめに会はせますからといふ続きが略してあるらしい。
[#ここから2字下げ]
夜の十時ホテルに帰り思へらく錦の如し函館の船
[#ここで字下げ終わり]
人の少い北海道を旅しつづけ今帰らうとしてホテルから見れば連絡船に美しき灯が這入つて居て錦の感じだ。ぱつと明るい感じが読者にも感ぜられる。
[#ここから2字下げ]
もの恐れせずと漸く思ふ日は生みし娘の髪尺を過ぐ
[#ここで字下げ終わり]
作者も漸く長じて物恐れをしない自信が出来て来た。それも道理、娘の髪の長さが一尺以上にも達してゐるのだから。女が一人前の人間になつたといふ感じと、少し盛りを過ぎたなといふ感じとが接続してゐる心持でもあらうか。
[#ここから2字下げ]
海峡の船に又あり五月より六月となり帰り路となり
[#ここで字下げ終わり]
青函連絡船の歌で棄て難い趣きはあるが、無意識に踏んだ韻が一面音楽的効果をあげてゐるせゐでもあらう。即ち第二句以下にりの音が五つも踏まれてゐる。
[#ここから2字下げ]
君未だ大殿籠りいますらん鶯来啼く我は文書く
[#ここで字下げ終わり]
しやれのめした歌である。作者も漸く成長してこれ許りの余裕が出来たわけだ。
[#ここから2字下げ]
爪哇[#「爪哇」は底本では「瓜哇」]のサラ印度のサボテ幸ひも斯くの如くに海越えて来よ
[#ここで字下げ終わり]
人間は四六時中、意識するかしないかの違ひはあるが、幸ひを求めて居る。生きるとは幸ひを求めることでもある。しかし之を得るものは少い。しかしもし幸ひが爪哇のサラサのやうに印度のサボテンの様に海を渡つて向うから遺つてくるものだつたらどうだらう。そんな幸ひが私の家へも来ないかしらといふので、こんな愉快な想像も類が少いが、サラサやサボテンと幸ひを並べたのも等しくサの頭韻を頂くものではあるが突飛で面白い。
[#ここから2字下げ]
髪乱し人来て泣きぬうらがなし豆の巻き髭黄に枯るゝ頃
[#ここで字下げ終わり]
女友達が訴へに来たが、心の乱れが髪の乱れにもあらはれて、しきりに泣くので私も悲しくなつた。初夏の庭にはスヰイトピイの花が終つて、巻髭が黄色に枯れかかつてゐる、それも寂しい光景だ。
[#ここから2字下げ]
ホテルなる小松の垣よ嵐など防がんとせで逃げてこよかし
[#ここで字下げ終わり]
逗子の渚ホテルらしい光景である。葉山へ行つてひどい嵐にあはれた時の歌の一つ。この歌位作者を見る様にはつきりあらはしてゐるものも少からうと思はれるので引いて見たが、外境に対する作者にはいつも同じ心が動いてゐるのである。
[#ここから2字下げ]
夏の夜は馬車して君に逢ひにきぬ無官の人の娘なれども
[#ここで字下げ終わり]
明治末年の頃の華族女学校出の令嬢なにがしの上であらう、極めて稀な例ではあるが日本開明史上の一風俗たることを失はない。歌も極めて
前へ
次へ
全88ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平野 万里 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング