恋人をして云はしめてもそれでもよい。

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讃岐路のあやの松山白峰に君ましませばあやにかしこし
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 この歌の下に流れてゐる感じは、前にあげた圓位と順徳院の真野の山陵の場合と全く同一で五百年を隔てて古への薄幸な帝王を忍ぶ悲壮ではあるが冷静な心持である。さればその感じも自らあらはれてその調子の高いこと、前の歌にも劣らない。あやの松山は崇徳院の流され給ふた所、又山陵の存在地でもあつた。保元物語に 浜千鳥あとは都に通へども身は松山に音をのみぞ泣く といふ御歌がありその頂を白峰といふらしい。あやは阿野又は繞で郡の名、そのあやにあやにかしこしのあやを引かけ、ここに寛先生の短歌革新運動以来追放されて久しいかけ言葉が復活した次第である。しかも大真面目に壮重に復活したのであつて、かけ言葉もここ迄来れば立派な音楽でもある。

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春につぎ夏来ると云ふ暇無さ黒髪乱し男と語る
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 晶子さんの秀歌の中には、同じ程の本分のある人なら作れさうな歌も少くはない。しかしこの歌に限つて晶子さんでなければ出来ない。私はさう思つてこの歌をよむのであるが、理由はよく説明が出来ない。或は作者の俤が裸で躍る様な感じが四五両句に感ぜられる、その為かも知れない。一首の意は恋愛三昧に日もこれ足りないのであらうが、ヰインの女のそれのやうに心易いものでなく、相当深刻なものであることは黒髪乱しが語つてゐる。

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雲遊ぶ空と小島のある海と二つに分けて見るべくもなし
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 秋の空が海に映り、海の青が空に映る瀬戸内の風光を、空には雲を遊ばせ、海には島を浮せ各その所を得しめた儘、之を併せて帰一させ、二にして一の実相として彷彿させる大手腕の歌だ。

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隣り住む南蛮寺の鐘の音に涙の落つる春の夕暮
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 暫くではあつたが千駄ヶ谷を出て神田の紅梅町に移られ、朝夕ニコライ堂の鐘を聞いて暮された事があつた。その時の歌。これは秋の夕暮ではいけないので、又夏や冬ではなほいけない、春でなければならないことは少しく歌を解するものなら分るであらう。唯私は涙を盛つた袋のやうな人であつたことを斯ういふ歌を読んで思ひ出す。涙が出ることを泣くといふならば一生泣き暮した人でもあつた。それは併し最も自然に立琴が風に鳴るやうなものであつた。

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渓に咲くをとこへしぞと我が云へど信ぜぬ人を秋風の打つ
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 歌の一面には、その相が特殊化されればされるほど段々価値の高まつてゆく一面がある。他面にはその反対の場合もあり、天地創造にも比すべき茫漠たる美が存在する、晶子さんの場合は、その両面とも人の行かれない極限迄行つて居る。それだからこそ秀歌が多いわけでもある。この歌には第一の場合の恐ろしい特殊面が出て居る。これは上州の奥の法師温泉――高村光太郎君によつて我々の間に紹介された古風な炭酸泉――に滞在中一日赤谷川の渓谷伝ひに三国峠へ登つたことがあつた。その途での出来事。見なれない花が咲いて居るのを、作者は、これは女郎花の一種で、渓に咲くをとこへしといふものだと教へた。それを聴いた人がそんな変な話があらうかといふ様な顔をした。作者は本草にはとても詳しいので決してでたらめは云はない、それに信じないとは怪しからんと思つた途端に秋風が吹いて来てその人の頬を打つた。残暑の酷しい折とて快い限りであつた、それをいい気味だ、人のいふことを信じない罰だと戯れたのである。何と細かい場面ではないか、これだけの特殊相がこの一首に盛られてゐるのである。凡庸の作家の企て及ぶ所でないことがこれで御分りであらう。

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人の世にまた無しといふそこばくの時の中なる君と己れと
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 貴方も私も未だ若いのですよ、若い時は人生に二度とないといふではありませんか、しかしその時は余り長くはありません、私達は今その貴重な時の中に起居してゐます、思ひの儘に振舞つて能率をあげませう。

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その下を三国へ上る人通ひ汗取りどもを乾す屋廊かな
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 法師温泉は川原に涌くのを其の儘囲つたもので、主屋は放れた小高い処に建てられて居り、其の間が長い廊でつながり、廊について三国街道が走つてゐる、廊には昨日三国へ上つた婦人客の汗取りがずらつと干してある、その下を三国を経て越後へ通ふ旅人が通るのである。これも山の温泉の特殊相である。

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恋人の逢ふが短き夜となりぬ茴香の花橘の花
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 橘が咲き茴香が咲き夏が来た、短い夜はいよいよ短くなつた、たまの逢
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