いが、この歌の様にやれば随分細かい温度の差まで相当明白に表現することが出来る。それ許りでない、涙の温度迄知れるといふ副産物さへあるのである。

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ある時のありのすさびも哀れなる物思ひとはなりにけるかな
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 今の歌の様でもない、昔からある詠み人知らずの名歌のやうな歌である。或はこれに似たものが多くの中には一首位あるかも知れない。なぜならこれほどの体験は誰にでもあることで、従つて一人位は歌つただらうと推定し得るからである。作者の歌としては寧ろ凡作に属するものであらうが、それにも拘らず、普遍的実相に触れた小さなクラシツクとして存在の価値はありさうである。

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雪ぞ降る人磨くべき要無きか越の平の白玉の山
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 雪の名所上越線湯沢の光景である。あとからあとから雲が降つて白玉の山はむやみに上へ許り高くなつてゆく。一体それで宜しいのか、形をととのへ白玉をして光あらしむるには折々磨いてやらねばならないのではないかと反問しそれによつて前景を彷彿させるのであるが、さういふ反問の出るのは同時にやむにやまれぬ芸術心の現はれたものでもある。

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わが肱に血塗るは小き蚊の族もすると仇を誘ひけるかな
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 私のけんまくが少しあらすぎた為か、君の気勢がさつぱり上がらず、抵抗もなく反能もなく反撃もない。これでは劇は進行しない。私はしまひにかういつてやつた。私の血で肱を塗る位の事は蚊でもやつてのけますよ。それを大の男がこれだけ攻撃されて手だしをしないとは如何した事です、どこからでも突いて御いでなさい、女の赤い血を出して見たいとは思ひませんかとこれでもかといふ風に敵慨心を刺戟して見ました。

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月出でて昼より反《そ》りし心地すれ鈴虫の啼く三津の裏山
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 いつであつたか三津浜の五松山荘に行つた時の作。私もこの時には御伴をした。残暑の酷しい折で裏山の叢で鈴虫が鳴いてゐた。か細い夕月が出て居た。著いて風呂から上がつた時の光景である。三ヶ月を昼から反つて居たやうに思ふといふことであるが、これなどは霊感に近い詩人の直覚によらなければ出て来ない考へである。

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男来て狎れ顔に寄る日を思ひ恋することは懶くなりぬ
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 恋にも上中下何階かの品等がある。雨夜の品定めの如きも未だその全貌を尽しては居まい。その最下級のもの、それが最も多い場合なのであらうが、ふとそんなまぼろしが浮んだ、男がなれなれしく寄つてくる、ああいやなことだ、そんなのも恋なら、恋などしたくもないと云つた心であらうか。又は、恋をしてもよいと思つて居る男ではあるが、あの男とてそのうちに狎れ顔に寄つてくるのではないか、さう思ふと進んで恋をする気にはならなくなる。こんな風にも取れる。

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初蛙淡路島ほど盛り上る楓の下に鳴く夕かな
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 楓の若葉が独り盛り上がる様な勢で、行く春の庭を圧倒してゐる心持を須磨から見た淡路島の感じで表現したすばらしい出来の歌である。前にも 青空の下に楓のひろがりて君亡き夏の初まれるかな といふ歌を出したが、初夏を代表するものとしてはやはり楓の若葉が一番であらう。

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憂き指に薄墨散りぬ思ふこと恨むことなど書きやめて寝ん
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 日記など書き出したが筆もつ指に薄墨が散つた。ああこの可哀さうな指、朝から色々のことに使はれて労れてゐるだらう可哀さうなこの指をこの上労するには忍びない。墨でよごれたのをよい折に書かうと思つた考へや恨みごとなどは止めにして寝ることにしよう。

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下総の印旛の沼に添ふ駅へ汽車の入る時散る桜かな
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 うしろに漫々たる印旛沼を控へ白い雲の様に見える満開の桜が、入つた汽車のあふりではらはらと散つた田舎の小駅の光景が捨て難く、三里塚へお花見に行つた時序に読まれたものであるが、歌も亦捨て難い。この時の三里塚の歌の中には 四方より桜の白き光射す総の御牧《みまき》の朝ぼらけかな などいふ佳作もある。

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たをやめは面変りせず死ぬ毒といふ薬見て心迷ひぬ
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 心中の情景でもあらうか。この薬は青酸カリか何かであらう。一寸見はただの塩の様なものだ。それを男から見せられた。もとより覚悟の前であるから心動ぜず面変りもしなかつた。唯その薬が余り他愛ないものなので、反つてこんなものを呑んで果して死ねるのだらうか、もし死ななかつたら如何だらうと心が迷つたのみである。一応こんな風に説いて見たが余り自
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