信はない。或は象徴詩かも知れない。又さうでもなく心中とは全然無関係のものかも知れない。

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麻雀の牌の象牙の厚さほど山の椿の葉に積る雪
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 この雪は伊香保の正月の雪であるが、この歌はそんなことに一切触れず、反つて麻雀牌に張つてある象牙の厚さを寸法として椿の葉に積つた山の雪の厚さを測定してそれだけで恐ろしい程の印象を与へるのである。

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長椅子に膝を並べて何するや恋しき人と物思ひする
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 若い時代の歌の内、最も平和な最も幸福な而してまた最もプラトニツクなものを求めたらこの歌が出て来るだらう。歌の中の人物の為に私は今更めて乾杯したい。時是昭和二十一年クリスマスイイヴ[#「イイヴ」はママ]。

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二荒山雲を放たず日もこぼれ雨もこぼるる戦場が原
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 男体白根は雲中に出没し、戦場が原は秋霧が渦を巻いて白け渡り索漠たる光景を呈してゐる。それでも霧の去来する僅の間隙から日光のこぼれることもあり、又反対に濃い霧が来た時は雨になつてばらばら零れることもある。併し何れも零れる程度だと省筆を用ゐて霧を抒した歌である。

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君に文書かんと借りしみ吉野の竹林院の大硯かな
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 竹林院に泊つた人の話によると大硯があるさうだといつであつたか何かの話の序に誰かそんなことを云ひ出して大笑ひをした事があつた。この歌は蓋し調子がいいからであらう、それ程即ち「大硯」が供へつけられる程有名な歌であつた。今読んで見ても実に調子がよい。名調子とでも云ひたい位だ。

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もろもろの落葉を追ひて桐走しる市川流の「暫」のごと
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 落葉の歌は世間にも随分多いし、この作者も実に沢山作つてゐる。しかしこの「暫」の様なのは二つとない。その見立ての凄さ、地下の団十郎も舌を巻くであらう。

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はかなごと七つ許りも重なれば離れ難かり朝の小床も
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 つまらない頼りにもならない様なことでもそれが七つも重ると自ら意味も生じ頼もしさも出て来てはかないながらそれらしい形が具つて来る。そんなわけもないまぼろしを追ふ許りにつひ朝の床も離れにくくなる。しかし幾ら重つてもはかなごとは遂にはかなごとなのであらうが。こんな風に考へて見たがこれでよいとも思へない。誰でも別に考へて見て下さい。

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木枯しす妄語戒など聞く如く君と語らずなりにけるかな
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 五戒十戒何れの戒にも妄語戒はある。外には木枯しが吹いてゐる。木枯しの声は厳しい。妄語戒のやうだ。薄い舌でべらべら口から出任せの※[#言+虚、第4水準2−88−74]を一夏しやべり続けた罰に凡ての木の葉を打ち落してしまふぞといふ木枯しの妄語戒は厳しい。さう思ふと君と話すことさへ憚られ、つい言葉少なになつて行つた。

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逆に山より水の溢れこし驚きをして我は抱かる
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 初めて男に抱かれた時の感じはこんなものであらうと女ではないが分る気がする。この歌がなければ遂に分らなかつたかも知れないから、読者の情操生活はそれだけ豊富になるわけだ。よい歌の功徳である。

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霧積の泡盛草の俤の見ゆれど既にうら枯れぬらん
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 霧積温泉で見た泡盛草の白い花がふと目に浮んで来た。しかし秋も既に終らうとしてゐる今頃はとうにうら枯れてしまつたことだらう。蓋し凋落の秋の心持を「泡盛草」に借りて表現するものであらうか。

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左右を見後ろを見つつ恋せよと祖のいひしことならなくに
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 四方八方見廻しながら注意深く恐る恐る恋をしろなどと私達の祖先はそんな教訓は残して居ません、それだのに如何でせう、私の態度はそんな教訓でも残つてゐて、それに従つてでも居るやうではないか、何といふ恥知らずなことであらう。

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いと親し疎しこの世に我住まずなりなん後も青からん空
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 十年後私が死んで地上に居なくなつた場合の秋の空を思ふと、やはりけふの様に青い事だらう、さう思つて改めて空を見ると、空の青さが親疎二様に見えて来る。親しいのは今の青。親しくないのは後の青。

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よき人は悲しみ淡し我がどちは死と涙をば並べて思ふ
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 善人賢人の悲しみを見るに淡々として水の様だ。それに対して我々のそれは如何かと云ふと、涙の隣に死が並んでゐる。悲しむ時は死ぬほど悲しむ。これは作者晶子さん
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