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牛の群彼等生くれど争ひを知らず食めるは大阿蘇の草
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 晶子さんは人と争つたことがない、徹底的に闘争が嫌ひであつた。徹底した平和主義者であつた。その繊細な神経が暫時の不調和をも許さなかつたからである。阿蘇の大草原に放牧されてゐる牛の群の争ひを知らずに生きて居る姿に人生の理想を見た作者であつた。
 寛先生の発明であるが、私達は昔絶句と呼んで短歌に二音加へた新らしい形式を試みたことがある。即五・七・七の片歌に短歌の下の句を加へたものとも見られ、又は片歌を二つ重ねた旋頭歌の第四句の五音を削つたものと見てもよい、五・七・七・七・七といふ形である。七が重るので七絶から思ひ付いて絶句と呼んだのでもあらうか、故大井蒼梧君がある日席上で作つたのに斯ういふのがあつた。 天地に草ある限り食ふと大牛よい哉その背我に貸さずや 席上大に賞讃を博したものなので未だに覚えてゐるが、同君も基督教徒の平和主義者であつた。牛と平和とはよく同調する。

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いみやらんわがため恋しき人生みし天地思ひ涙流るゝ
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 あの人を恋した許りにこんなに苦しんでゐる。私の為には悪人であるあの人もいつの日か天地の生んだものである事を思ふと私を生んでくれた同じ天地が恨めしくなる。もし天地があの人をあの時生んでくれなかつたらこんな悩みもなかつたであらうと思ふと悔しくて涙がこぼれる。

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石は皆砒素を服せる色にして河原寂しき山の暁
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 上野原を流れる桂川の河原である。砒素を毎日少しづつ呑むと肌の色艶がよくなつて若返るといはれ、欧洲の女優などが試みるさうである。河原の石のつやつやしたしかしどことなく寂しい色をした山の暁である。砒素を服した様な色だといへば少し心持が出る。いくらつやがあつても元来毒である。しまひには毒に中つて死んでしまふ色であるから寂しいのであらう。

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昨日わが願ひしことを皆忘れ今日の願ひに添ひ給へ神
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 我が儘勝手な願ひであつて、恋愛の本質亦然り、それを歌ふ抒情詩の内容も同じやうなものであらう。そこが面白いのである。義理、人情、宗教、道徳から解放された自由な人間活動がその中で行はれるのである。

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倶忘軒百歩離れて我れ未だ世事を思はず桜散り敷く
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 熱海の藤原さんの別墅を尋ねた時の光景。満開の桜があまり見事なので荘を離れて百歩いまだ世事を思ふ暇さへなく桜吹雪に吹きまくられてしまつたといふのである。倶忘軒は亭の名であらう。又同じ桜花の光景が 断崖《きりぎし》に門《もん》あり桜を霞這ひ天上天下《てんじやうてんげ》知り難きかな とも歌はれてゐる。

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子等の衣皆新しく美くしき皐月一日花菖蒲咲く
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 晶子さんは学者として論客として女性解放者として教育者として各方面に女らしくない大活動を転囘した人であつたが、その本質はやはり抒情詩人であつた。何よりの証拠はその衣装道楽である。女らしさと芸術家気質とが混合したものであらう。従つて少しでも余裕が出来れば御子さん方の衣類も新調されたであらう。従つて斯ういふ歌が出来るわけだ。子供達が新らしい著物を著る衣替への心持と花菖蒲の咲くメイデイの心持との快い共鳴と同時に母親としての満足もよくあらはれてゐる歌である。

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小室山黒髪の夜となりにけり雨は梅花の油なりけん
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 早春の雨が降つて寒さのゆるんだ心持を歌つたもので、小室山は川那ホテルの上の草山。女の黒髪の様な艶に柔い夜が小室山を包んでしまつた。先程の雨は髪の油ででもあつたのだらう。梅花の油は椿の油に梅花の匂ひをつけた香油の意であらう。しかしこの梅花を点じた所に早春の気持が覗いて居るのである。

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おどけたる一寸法師舞ひ出でよ秋の夕の掌《てのひら》の上
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 をかしみ多く歌つてはあれど、底には秋の夕のやるせない心持が流れてゐる様に響く。一体おどけた歌の少い人であるからこれなどは珍しい方だ、この外にも前の句を思ひ出せないが、あとの句は 御名は鳥帽子ゆらゆらの命 といふのがあつた。

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掌に峠の雪を盛りて知る涙が濡らす冷たさならず
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 物を規定するのに大抵の人は正攻法を用ひ肯定的にやる、それ故に微に入り細に入る時は忽ちつかへて匙を投げてしまふ。然るに逆に搦手から否定的に行くと案外旨くゆくものである。作者はこの呼吸をよく知つて居る。この雪の冷さを肯定的に規定することは短い歌のよくする所でな
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