明治時代は風流なことであつた。今なら「こめ」「はくさい」「しほざけ」と云ふに違ひない。

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いつまでもこの世秋にて萩を折り芒を採りて山を行かまし
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 伊豆の吉田に大室山といふ大きな草山がある。島谷さんの抛書山荘から歩いて行ける。この歌の舞台で、奈良の三笠の山を大きくし粗野にした景色である。終日山を行つて終日山を見ず、萩を折り芒を採つてどこまでも行きたい様な心持を作者に起させたに違ひない。

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表町我が通る時裏町を君は歩むと足ずりをする
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 足ずりをするは悔しがることである。事余りに明白なので解説の必要もないが、その表象する場合は数多くあらう。誰でも一度や二度覚えはあらうから読者は宜しく自己の体験に本づいて好きな様にあてはめて見るべし。歌が面白く生きて来るだらう。

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黄昏に木犀の香はひろがれど未だつつまし山の端の月
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 夕方になると木犀の香は一層高くなり遠くへもひろがる。空気の澄んだ湖の家のこととて尚更いちじるしい。その強烈な匂ひに対して山の端に出た三日月のこれはまたつつましいこと、形は細く色は淡い。作者は人の気のつかない色々の美を、その霊妙な審美眼を放つて瞬間的に之を捕へ、歌の形に再現して読者に見せてくれる為に生きてゐた様な人であるが、対照の美をいはゞ合成する場合も往々ある、この歌などがその例で、これは自然の知らない作者の合成した美である。

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水無月の熱き日中の大寺の家根より落ちぬ土のかたまり
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 天成の詩人も若い頃即ち修養時代には色々他の影響を受ける。この歌には蒲原有明さんの匂ひがしてゐる。ある近代感を現はさうとした作で、この人には一寸珍しい。

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天草の西高浜の白き磯江蘇省より秋風ぞ吹く
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 昭和七年九月、九州旅行の最後の日程として天草へ廻られた時の作。西高浜の白砂に立つて海を見てゐると快い初秋風が吹いて来る。対岸の江蘇省から吹いてゐるのだから、潮の匂ひの中には懐しい支那文化の匂ひもまじつてゐるに違ひない。そんな心持であらうか。この歌も恐ろしくよい歌だが、同じ秋風の歌でこれに負けない寛先生の作がある。私は一度ある機会に取り出して賞美したことがあつたが、序にも一度引用しよう。 開聞のほとり迫平《せひら》の松にあり屋久の島より吹き送る秋 前の天草が日本の西端なら、この開聞が岳は日本の南端で、その点もよく似てゐるがその調子の高いことも同じ程で何れもやたらに出来る種類の歌ではない。

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水隔て鼠茅花の花投ぐる事許りして飽かざらしかな
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 幼時を思ひ出した歌。斯ういふ種類の歌には余りよい歌はない、その中でこの歌など前の鏡の歌と共に先づ無難なものの一つであらう。

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天草の白鶴浜の黄昏の白沙が持つ初秋の熱
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 これは何といつても天草であること、白鶴浜であることが必要で、房州の白浜辺の砂ではこれだけの味は出て来ない。固有名詞の使用によつて場所を明確にし、その場所の持つ特有の味、色、感じを作中に移植する方法は、作者の最も好んで用ゐる所であるが、この歌などはその代表的なもので、それに依つて生きて居るのである。

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君に逢ひ思ひしことを皆告げぬ思はぬことも云ふあまつさへ
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 これは勿論下の方の思はぬことも云ふあまつさへを言ひたい許りに出来てゐる歌で、この句によつて恐らく不朽のものとならう。外国語に翻訳されたら例へば巴里のハイカイといふ如き形を取つて世界的の短詩となるであらう。

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巴浜、巴の上に巴置く岬、松原、温泉が岳
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 これも天草の歌。温泉岳が見えるのだから東側の浜であらう。巴のやうな形をして居るのであらう、その巴の上に岬と松原と海を隔てた温泉岳が三つ巴を為して乗つてゐるといふのであらう。巴の字が巴の様に三つ続く所に音楽があつて興を添へてゐる。

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翅ある人の心を貰ふてふ事は危し得ずば憂からん
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 翅ある人とはキリスト教の天の使か羽衣の天女か何れでもよいが、うそ偽りのない清い心の持主を斥すのであらう。さういふ清い心を貰つて自分の心としたら如何であらう。危いことだ。この恐ろしい世の中には一日も生きてゐられないかも知れない。さうかと云つて貰はないことはなほいけない。汚い心で生きるのでは生甲斐もありはしない。何れも不可である、それが人間の真実の姿なのであつた。

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