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咢堂先生を嘗て莫哀山荘に御尋ねした時軽井沢では梅雨期にはほととぎすが喧しい位啼くといふ御話であつた。私はさういふほととぎすをラヂオの録音以外には聴いた事がない。このほととぎすは伊豆の吉田のそれで私の隠宅尚文亭で毎年聞くものと同じものらしく、少しく間を置いて啼いたものらしい。この歌の鳥は咒文か真言か鳥の国の文章を読むものと見做されてゐるが、一章を読み了へて後一章を次ぐとはよく聴いたもので、これ以上的確な写生はあるまい。
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髪あまた蛇頭する面振り君にもの云ふ我ならなくに
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メヅウサはもとは美しい女であつたが、ミネルバの怒りに触れて、髪の毛を蛇に変へられ、その目で見られたものは恐ろしさに何物も皆化石してしまふといひ伝へられる女である。そんなメヅウサのやうな顔をしてあなたに物を云つて居る私ではないとは思ふものの、もしさうであつたら如何しよう、あり得ないことでもないから。半信半疑又は我を疑ふ場合であらう。
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誓ふべし山の秘密を守るべし蛾よ我が路に寄り来る勿れ
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若葉の頃塩原での歌。散歩の途上であらう余程多くの山の蛾に襲はれたらしく悲鳴をあげた形である。悲鳴のあげ方が人間扱ひで面白い。この様に何もかも人間扱ひにする、それを晶子さんの常套手段だとするのは当つて居ない。さうではなく晶子さんの神経には万有が直ちに人間として感ぜられるのである。
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朝顔の蔓来て髪に花咲かば寝てありなまし秋暮るゝまで
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例の千代の 朝顔に釣瓶とられて貰ひ水 といふ句を子規がけなしつけて理窟だと言つた。その通りだと思ふ。しかしもしこの歌を同じ理由でけなすものがあつたら、それは当らない。この歌は朝顔の美を詠んだものではない。朝寝がしたいのである。朝顔でもはつて来て髪に花が咲いたらそれをよいことに起きないのだがといふので、句の様に理窟ぜめに朝顔の美を称するのでも何でもない。
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馬遣れば山梨えごの白花も黄昏時は甘き香ぞする
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馬遣ればは馬に乗つてその木の下を通ればといふ意味だと思ふが、即ち花の咲いてゐる直ぐ下を通るので、何の匂ひもしない白い花だが黄昏時にはさすがに甘い匂ひが感ぜられるといふのではなからうか。山梨えごの花なるものを知らないからはつきりは分らない。
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青白し寒し冷たし望月の夜天に似たる白菊の花
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いく度か云つた様に斯ういふ歌は一種の音楽である。それ故内容などに就いて彼此れ野暮な詮索をしないことだ。唯高声に或は低声に朗々と吟じ去り吟じ来つて日本語の美を味はへばそれが一番よいことであつて、精神生活はその都度向上するわけである。
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心経を習ひ損ねし箒川夜のかしましき枕上かな
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心経は般若心経で門前の小僧誰も知つてゐる短いお経である。しかし塩原を流れる箒川の場合はこれを色即是空 空即是色と四書の連続する快い響きの代りに途方もない乱調子が続いて、やかましくて寝つかれないといふのである。
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冬の夜を半夜寝ねざる暁の心は君に親しくなりぬ
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冬の夜長を殆ど眠らず尖つた心の儘に物思ひにふけつてしまつた。しかし段々労れてくるにつれにぶつたとげも遂にはぼろりと落ちて、もとの円味のある心になり、夜の明ける頃にはやうやく親しむ気分にさへなつた。つまり疲労のお蔭で仲直りが出来たといふわけなのであらうか。
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五月の夜石舟にゐて思へらく湯の大神の縛《いましめ》を受く
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石舟は石の湯舟でいはふねと読むのではないかと思ふが確かではない。五月といへば山の夜も寒くはない、外は暗い、外から若葉の匂ひがしみこむ様だ。渋い感触の石造の湯舟に浸つて目を閉ぢて居ると心気朦朧としてこの儘いつまでも浸つて居たい様な出るにも出られない様な心持になる、それは丁度湯の神の咒文で縛られて居る感じである。
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逢はましと思ひしものを紅人手一つ拾ひて帰りこしかな
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鎌倉の様な処へ出養生に行つてゐる少女の歌である。逢へるだらうと思つた何時も逢ふ人に今日は逢へず、その代りに紅人手を一つ拾つて帰つてきたが、その物足りなさ。自分の知らぬ間に私はあの人を思ふ様になつてゐたのであらうかなど自問する場合であらう。
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峯々の胡粉の桜剥落に傾く渓の雨の朝かな
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これも塩原の朝の小景。散り際の一重の深山桜
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