が峰々にあちこち残つてゐる、それに雨が降りかかつて渓に散りこむ姿は塗つた胡粉のぽろぽろ剥げてゆく感じである。それを「胡粉の桜」と直截に云つた所がこの歌の持つ新味である。
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石七つ拾へるひまに我が心大人になりぬ石捨ててゆく
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少し道歌の気味はあるが、人間の欲望の哲学が平易に語られてゐるので捨て難い歌だ。人間は生長するに従つて欲望に変化を来し、最後に無欲を欲するに至つて人格が完成する。欲望とは独楽のやうなものだと云ふ人があるが、この歌ではそれが七つの石――何の役にも立たぬ石ころ――になつてゐる。
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いと寒し崑崙山に降る如し病めば我が在る那須野の雪も
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九年の正月那須で雪に降りこめられその中で俄に重態に陥つた時の作。病床から硝子戸越しに降りしきる那須野の雪を見て居ると寒さが身にしみ入る様で、西蔵境の崑崙山脈に降つてゐる雪の様に感ぜられる。氷点下何度といふ代りに標高一万米突の崑崙山を持つて来たわけもあるが、「病めば我がある」といふ件、重態に落ちた体験の持主なら容易に同感出来る境地である。私も若い時冬の最中寒い大連で生死の境に彷徨し同じ様な心細さを感じたことがあつた。
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紫に春の風吹く歌舞伎幕憂しと思ひぬ君が名の皺
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昔の劇場風景。昔の芝居は朝から初まり幕合が長かつた。快い春風が明け放たれた廊下から吹き込んで引幕に波を打たせる、それは構はないが、大事の君の名の所に雛が寄つて読めなくなるのが悲しい。大きくなつた半玉などの心であらうか。
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那須野原吹雪ぞ渡る我が上をそれより寒き運命渡る
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この時は大分の重態で御本人も寛先生も死を覚悟された模様であつた。この歌にもそれがよく現はれてゐる。那須野原吹雪ぞ渡るといふ調べの荘厳さは死そのものの荘厳さにも比べられるが、一転してそれより寒き運命渡ると死に向ふ心細さを印し以て人間の歌たらしめてゐるのであるが、蓋し逸品と称すべきものの一つであらう。
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人捨つる我と思はずこの人に今重き罪申し行なふ
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人捨つるは人を捨てるの意であらう。人を捨てることの出来るやうな残酷な強情な私とは思ひません、ですからどこまでも捨てずに行きます、しかしこの度のことは何としてもただでは許せません、これから重い刑を申し渡しますからその積りでおいでなさい。要するに口説歌とでも解すべき、抒情デテエルであるが、これも新古今辺から躍出して多少とも新味のある明治の抒情詩を作り出さうとした作者の試みである。
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雪積る水晶宮に死ぬことと寒き炬燵となど並ぶ[#「並ぶ」は底本では「茲ぶ」]らん
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私は今雪の降り積る水晶宮の中で氷の様な冷い神々しい感じで静かに死んでゆく。それだのにその側に那須温泉の寒さうな炬燵が置いてある、どうしたことであらう。これは恐らくは実際に見た重病人の幻像であらう。
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昔の子なほかの山に住むといふ見れば朝夕煙たつかな
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明治の末年故上田敏先生が大陸の象徴詩を移植しようとして訳詩の業を起され、当時の明星が毎号之を発表してそのめざましい新声を伝へたことがある。それらは後にまとめられて海潮音一巻となつた。この訳詩は、上田さんの蘊蓄がその中に傾けられたとでも言はうか、その天分が処を得て発揮されたとでも言はうか、実に見事な出来で、寛先生の数篇の長抒事詩以外日本の詩で之に匹敵するものはないと私は信じてゐる。私は今定形詩に就いて云つて居るので、律動のみの自由詩には触れない言である。この海潮音は当時私達新詩社の仲間に大きな感激を齎らし、他から余り影響を受けない晶子さんとて免れるわけはなかつた。この歌などがその現はれではないかと思ふ。斯ういふ現実放れのした歌は、その後我々の方でも余り作られなくなつてしまつたが惜しいわけである。自縄自縛といふことがあるが、現在の歌作りがそれである。
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白山に天の雪あり医王山《いわうさん》次ぎて戸室《とむろ》も酣の秋
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昭和八年の晩秋、加賀に遊ばれた時の作。白山は加賀の白山で、白山は雪が積つてもう冬だ、その次は医王山これも冬景色に近い、次が前の戸室だが、ここは今秋酣で満目の紅黄錦のやうに美しい。三段構への秋色を手際よく染め上げた歌。
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見えぬもの来て我教しふ朝夕に閻浮檀金の戸の透間より
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閣浮檀金とは黄金の最も精なるものの意であらう。詩を斎く黄金の厨子があ
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