へかけては昔の武蔵野の俤が残つてゐて野馬でも遊んでゐさうな心持がしてゐた。そこで外の時ならよいが、御産のすまないうちにそんな闖入者があつては困るので白菊を植ゑて柵にしたのです。さて闖の字を書いて見るとここにも野馬の遊びにくる趣きが出てゐてをかしい。

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御堂より高かる空に五山浮き松風の鳴る広業寺かな
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 明治の画家寺崎廣業氏の山荘を禅寺にしたらしく信州渋の上林にある。小さくとも寺であるから主家《おもや》を御堂と呼び、その上の空に山々の聳えてゐるのを禅宗寺院に因んで五山と呼び、松風を添へて山寺の風致を引き出すわけである。

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撥に似るもの胸に来て掻き叩き掻き乱すこそ苦しかりけれ
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 掻き叩きといふから丁度長唄の撥の気持であらう、さういふものが来て胸を叩くので感情は忽ち混乱してしまふ、その苦しさといつたら無い。そんなことが往々あつたが、今また丁度来て私の胸を掻きむしつてゐる最中だ。その正体は何物か、それは分らない。しかし撥のやうなものらしい。苦しいが打ち払ふ術もなく叩くに任せてゐるのである。之では説明も要領を得ないが象徴詩は仕方がない。

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駅二つ裾野の汽車は越えつれど山の蛍は飛ぶを急がず
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 妙高山腹の赤倉温泉での作。今しがた田口を出た遠い汽車の灯が見て居るうちに裾野を廻つて二本木に着き、そこをも越えて大急ぎで山を走り下りてゆく。その間同じ小さい灯ながらこの辺を飛ぶ山の蛍はどうかといへば、何の目的もなくふわりふわり飛んでゐる許りで、汽車の灯などどうあらうと見向きもしない。僅に二種の小さい灯を比較するだけで越後平野を見渡す妙高の夜景をぼんやりではあるが描出してゐる。

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男にて鉢叩きにもならましを憂しともかこち恨めしと云ふ
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 どうですこの頃の私のこぼし方、朝から晩まで不平許り、辛いと云つたり恨めしいと云つたり、誰の為にこんな苦労をするのだらう。もし私が男だつたら、私はいつそ鉢叩きにでもなりますよ、さうしてお念仏を申しながら瓢箪を叩いて廻りますよ、その方がどれほど苦労が少いでせう。

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薬師山霧に化《かは》りて我が岸の板屋楓が薬師に化る
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 昭和九年七月赤城山上大沼でひどい霧に会はれたその時の歌。対岸の薬師山が忽ち化して霧になつたと思つたら、此の岸の板屋楓が今度は反つて薬師に化けた。をかしいこともあるものだといふ座興であるが、対岸の薬師山には恐らく薬師を本尊とするお寺か何かあるか、或は伝説でもあつて薬師に関係があるのであらう。さうでないと面白くない。

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物語二なき上手《じやうず》の話よりものの哀れを思ひ知りにき
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 私は嘗て年寄許りの席で老妓の昔話を聞いたことがある。大阪の話である。一つは滑らかな大阪弁がさうさせたのでもあつたらうが、私は感に堪へて聞いてゐた。この歌を読んでその時のことを思ひ出すが、確にもののあはれを思ひ知つたといふのであらう。恐らく誰にでもさういう体験はあらうか。

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恋をして徒になる命より髪の落つるは惜しくこそあれ
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 恋をすればいふ迄もなく命はすりへつてしまふ、かけ替のない命をすりへらすとは何といふ惜しいことだらう。しかしそれよりも尚惜しいのはこの頃のやうに髪の落ちることだ、かう毎日毎日落ちていつたら一体どうなるのだ。有形無形何れかと問はれた若い女の答である。

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山の霧焔なりせば如何ならん白き世とのみ見て許せども
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 これは実に恐ろしい想像である。霧が寄せて山も湖水も草も木も青白いものになつた。見るものはそれを白い世界が出来た位に安心して見てゐるが、もし霧でなくて火焔であつたらどんなものだらう、思つても恐ろしい事だと自分の空想に自分で怯へる不思議な歌である。

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やごとなき君王の妻《め》に等しきは我がごと一人思はるゝこと
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 作者にははじめ山川登美子さんといふ恋の競争者がゐて、その為にどれ程悩んだか知れなかつた。しかしそれは登美子さんの知つたことではなかつたし、その内この妹のやうなお友達も若くして世を去つたので、漸くこの歌のやうな境界が出現した。その後は多少の葛藤はあつても其の儘遂に変ることはなかつた。それを思ふと幸福な一生だつたと言はざるを得まい。この歌の嬉しさうな調子を見ればさう評して間違ひはあるまい。

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