照らすとは言ひ得て妙といふべく、或はこれ以上の表現はあるまいとさへ思はれる位だ。誰か旨い英語に訳して見たら如何かと思ふ。

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思ふ人ある身は悲し雲涌きて尽くる色なき大空のもと
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 野に立つて目を放つと地平からむくむく雲が涌き上つてきていつ果てるとも知れない。思ふことなしに見れば一つの自然現象に過ぎまいが、人を思ふ私が見ると丁度物思ひの尽きない様にも見えて悲しくなる。

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正忠を恋の猛者ぞと友の云ふ戒むるごとそそのかすごと
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 正忠は山城正忠君の事で、琉球那覇の老歯科医である同君は年一度位上京され、その都度荻窪へも立ち寄られた。同君は古い明星の同人で、若い時東京に留学されその時先生の門を叩いたのであるから古い話だ。当時一しよに私の家などで運座をやつた仲間の生き残つてゐるのは吉井君であるが、大家を別とすれば今だに作歌を続けてゐるのは同君位のものであらう。戦争で大分辺に逃げて来て故江南君によると単衣一枚で慄へて居られるから何か著物を送るようとの事であつたが、その時は最早小包便など利かなくなつてゐたので如何とも致し様がなくその儘にしてしまつたが今頃は如何して居られることだらうか。その山城君は五十になつて恋をした、しかも熱烈な純真なものでさへあつたらしく沢山歌を詠んでゐる。それを本人は隠さうともしなかつた。恋の猛者とは年老いてなほ若い者に負けない気力を示した意味であるが、大勢の子供があり既に初老を越えた身の何事だといふのが戒むる意味、その純真な態度を知つては大に若返るのもいい事だ少しはやるがよいといふのがそそのかす意味、あなたを恋の猛者だと冷かすがその中には以上二つの意味が這入つてゐるのですよ。といふわけである。何となく奥行のある俳諧歌だとは思ひませんか。尚山城君は近年「紙銭を焼く」といふ歌集を出してゐる。琉球の郷土色が濃厚に出て居て珍しい集である。

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高き屋に登る月夜の肌寒み髪の上より羅《ら》をさらに著ぬ
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 月を見て涼を入れようと半裸体の麗人が高殿へ登つてゆく、いくら夏でも上層は冷い、そこで髪の上からトルコの女のするやうに羅《うすもの》を一枚被いて残りの階を登つて行く。少し甘いが、紫色の一幅の画図を試みたものである。

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山行きて零れし朴の掌《たなぞこ》に露置く刻《こく》となりにけるかな
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 秋の漸く深い水上温泉へ行つた時の歌。奥利根に添ひどこ迄も上つて行くと秋の日の暮れ易く道端に零れてゐた朴の葉の上にもう露が置いてゐた。では帰りませうといふ心であらう。

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半生は半死に同じはた半ば君に思はれあらんにひとし
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 生きるならば全生命を燃やして生きます。半分生きるといふのは半分死ぬことですいやなことです、丁度あなたが半分だけ私を思つて、あとの半分で外の人を思ふのと同じです、私の堪へ得る所ではありません。恐らくは、はた半ば以下を言ひ度い為に、前の句を起したので目的は後の句にあるのであらう。

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月出でん湯檜曾《ゆびそ》の渓を封じたる闇の仄かにほぐれゆくかな
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 月出でんで勿論切る。その底を利根川の流れる湯檜曾渓谷にはもう二時間も前から闇といふ真黒な渦巻とも気流とも分らないものが封じ込まれてゐたが、それが少しづつではあるがほぐれ出すけはひの見えるのは月が出るのであらう。闇がほぐれるとは旨いことを云つたものだ。

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神無月濃き紅の紐垂るる鶏頭の花白菊の花
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 十一月といふ季節を音楽的に表現したものである。写生画を見るやうな積りで見てはならない。花の写生をしようなどいふ意図は毛頭ないからである。

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承久に圓位法師は世にあらず圓位を召さず真野の山陵
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 この一首の調子の気高さ、すばらしさ、帝王の讃歌として洵に申し分のない出来だ。真野の山陵は佐渡に残された順徳院のそれである。作者は二囘佐渡に遊びその度にこの院を頌してゐる。院は歌人でもあり、歌学者としても一隻眼を具へ八雲御抄の著があつて当時の大宗匠定家にさへ承服しない見識が見えてゐて、晶子さんはそれを嘗て、定家の流に服し給はずと歌つてゐる位のお方だ。又西行は当時の権威に対し別に異は立てなかつたが窮屈な和歌を我流に解放した人である。もし西行が承久に生きて居たら、白峰に参つたやうに佐渡へも必ず渡つてもしそれが生前であつたら院の御機嫌を伺つたことであらう、院はどれほど喜ばれたことであらう。しかし時代が違つた為山陵すら白峰のや
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