り]

 月夜の蟋蟀の声を金鈴銀鈴と聞く心持からその栖家が「金の家銀の家」となるので、交感神経による音感と視感との交錯である。花草の原は少し未熟だが月夜蟋蟀の造語は成功してゐる。(造語ではなく昔の人の使ひ古した言葉かも知れないが)

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正月の五日大方人去りて海のホテルの廊長くなる
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 正月休みで雑沓してゐた海浜ホテルも五日になれば大方引上げて客が疎らになつた、そのために廊下が長くなつたやうな気がする。この感覚は清少納言の持つてゐたもので、また優れた多くの詩人の生れながらに持つてゐる所のものである。我が国でも芭蕉、蕪村、一茶近くは漱石先生など持ち合せて居たが、不幸歌人中には一人も見当らない。

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風吹けば馬に乗れるも乗らざるもまばらに走る秋の日の原
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 之を写生と見たいものは見ても宜しいが、私は広い草原に野分だつた風の吹いて居る心持を人馬の疎らに走る象によつてあらはした一種の象徴詩だと思ふ。私は少年の日多分二百十日の頃だと思ふが寛先生に連れられて渋谷の新詩社を出て玉川街道を駒沢辺まで野分の光景を見に行つたことがある。その頃の草茫々たる武蔵野を大風の吹きまくつて居た光景がこの歌を読むとどうやら現はれて来る。

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僧俗の未だ悟らず悟りなばすさまじからん禅堂の床
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 円覚寺の僧堂で居士を交じへて雲水達の坐禅をしてゐる処へ偶※[#二の字点、1−2−22]行き合せたものらしい。平常でも石の様に冷い僧堂が寒中のこととて凍りつく許りに見えたことであらう。しかしその一見冷い中にも修行者の集中した精神力から自然に迸る生気は脈々として感ぜられる、まだ悟らないからいい様なものの、もし一時にこれだけの人数が悟つたらどんなことになるだらう、その凄じい勢ひに禅堂の床などは抜けてしまふであらうと云ふのである。寛先生は若い時、天竜寺の峨山和尚に就いて参禅し多少得る処があつた様であるから、這般の消息は分つてゐるが、夫人は何らその方の体験なく唯禅堂の様子を窺つた丈で悟の前後の歓喜をよくこれだけ掴まれ、又適確に表現されたものだと思ふ。

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古里を恋ふるそれよりやや熱き涙流れきその初めの日
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 男を知つた第一夜の心を自分から進んで歌ふことは余りなかつたことと思はれるが、作者は臆する処なく幾度か歌つてゐる。その時流れた涙の温度をノスタルジアのそれに比して明かにしてゐる。之亦生命の記録の一行として尊重さるべきであらう。

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夕明り葉無き木立が行く馬の脚と見えつつ風渡るかな
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 疎らな冬木立に夕明りがさして歩いてゆく馬の脚の様に思へる、そこへ風が吹いて来て寒むさうだ。馬の脚などといふとをかしい響きを伴ふのでぶちこわしになる恐れのあるのを、途中で句をきつてその難を免れてゐる所などそんな細かい注意まで払はれてゐる様だ。

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緋の糸は早く朽ち抜け桐の紋虫の巣に似る小琴の袋
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 家妻の為事に追はれ何年か琴など取り出して弾いたこともない。大掃除か何かで偶※[#二の字点、1−2−22]取り出されたのを見ると、縫ひ取つてあつた緋の糸は朽ち抜け桐の紋などは虫の巣の様になつてゐる。歳月の長さが今更思はれるといふ歌である。之より先楽器の袋を歌つた歌がも一つある。それは 精好《せいがう》の紅《あけ》と白茶の金欄の張交箱に住みし小鼓 といふので、之亦偶※[#二の字点、1−2−22]取り出して見た趣きであらう。精好とは精好織の略で絹織物の一種である。

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十二月今年の底に身を置きて人寒けれど椿花咲く
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 十二月今年の底とは何といふすばらしい表現だ。かういふ少しも巧まぬ自然さを達人の筆法といふ。十二月は作者の誕生しためでたい月で、その五十の賀が東京会館で祝はれた時も、鎌倉から持つて来た冬至の椿でテエブルが飾られ、椿の賀といはれた位で、早咲きの椿を十二月に見る事は作者に取つては嬉しいことなのである。

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粉黛の仮と命のある人と二あるが如き生涯に入る
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 生命のある真の人間と、人前に出る白粉をつけ紅をさした仮の人間と二人が同じく私の中に住むやうな生活がとうとう私にも来てしまつた。而してこの間までの若い純真さは半ば失はれてしまつたが、人生とは斯ういふものなのであらう。

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東京の裏側にのみある月と覚えて淡く寒く欠けたる
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 師走の空にかゝる十日位の半ば欠けた宵月の心持で、東京の裏側を
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