うに之を召すことはなかつた。一人の知音なく遠い佐渡で淋しく崩ぜられた院の上がいかにも帝王らしい高雅な調べで表現されてゐる。
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梅雨《つゆ》去りぬ先づ縹草初夏の瞳を上げて喜びを云ふ
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梅雨が上つていよいよ夏だといふはればれしい感じは恐らく凡ての草木の抱く所であらう。この歌ではその最初の声を発するものが縹草即ち小さい露草で、可哀らしい紫の瞳を上げて子供らしく嬉しい嬉しい嬉しいといふ様に見える。成るほどさうかも知れない。
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大きなる護岸工事の板石の傾く上に乗れる青潮
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これは新潟港の所見である。護岸工事の傾斜したコンクリイトの板石に秋の潮がさして来る、その心を濡らす様な青さ。青潮にはその中に作者の心が溶けてゐて抒情性がそこに生れるのである。単純に天地の一角を切り取つた無情の写生ではない。
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雨の日は我を見に来ず傘さして朝顔摘めど葵を摘めど
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私は花作りです、いつも庭へ出て花の世話をします、それをあの人は見に来ます、私を恋して居るのでせう、私はさう思つてゐました、さうして見られるのを楽しみました。それに如何でせう、雨の日は来ません、私は見られたさが一杯で傘をさして葵の日には葵を摘み、朝顔の日には朝顔を摘んで待ちましたが、遂に見に来ませんでした、そんな浅はかな恋があるでせうか、あの人のことはもう考へないことにしませう。
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はてもなき蒲原の野に紫の蝙蝠のごとある弥彦かな
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越後蒲原の平野から弥彦山を望んだ第一印象で、同地を故郷とする堀口大學君が激賞してゐる歌だ。私の知らぬ景色だから批評の限りでないが、堀口君が感心してゐるのだから間違ひはあるまい。
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二十三人をまねびて空笑みす男のすなる偽りも云ふ
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人を見ればをかしくもないのに作り笑ひをして歓心を求めたり、又男の様にうそを云つたり私も大分違つて来た。何時頃からこんなになつたのであらう、さうだ二十三の時だ、そんなことを覚えたのは。これも作者の場合に示された人間記録の一である。
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永久《とこしへ》と消えゆく水の白波を一つのことと思はるべしや
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過去とか未来とかいふものは思想上には考へられるが実在はしない、実在するのは現在だけである。従つて永久といつても現在の外にはない、現在が永久であり、永久は現在である。こんな哲理を考へながら渓流を見て居ると岩にせかれて白波の立つては消えるのが注意を惹く。現在と永久とが一つのものならば、消えてゆく波と永久とが同一物といふことになる。そんなことはどうしても考へられない。現象即実在、差別即平等、沙婆即寂光土など同一カテゴリイに属する思想で皆詩人の厳定しにくい処であらう。
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火に入らん思ひは激し人を焼く炎は強し何れなりけん
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私は火の中に跳び込んで自分を焼いてしまふ位激しい感情の持主です、又私の情熱は相手を焼き殺してしまふ位強烈なものです、そのどちらが働いてこんなことになつたのでせう、分りますか、どちらも同じものですよ。
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川東中井の里は五十度の傾斜に家し爪弾きぞする
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昭和九年の秋上州四万に遊ばれた時の作。私は四万へは行つたことがないので説明しかねるが、渓流に臨んだ急勾配の斜面に川東の中井部落といふのがあり、そこから爪弾きの音が聞こえて来た。今にも滑り落ちさうな崖の途中の様な処に住みながらいきな爪弾を楽しんでゐるとは如何した人達であらうと感心して居る心であらう。五十度の傾斜といふ新らしい観念と爪弾といふ古い情趣との対照がことに面白い。
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火の中の極めて熱き火の一つ枕にするが如く頬燃えぬ
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頬が燃えるやうに熱くなるのは如何いふ場合であらうか。それによつて情熱を言ひ現はすことも考へられないではないが、羞恥に堪へられぬやうな場合の方が当つて居るやうに思はれる。この歌の場合も最上級の羞恥を現はしたものと見てよいやうである。燃らば唯一度しかない場合のものとも見られる。
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川の幅山の高さを色ならぬ色の分けたる四万の闇かな
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山の蛾が飛び込むので閉めてあつた障子をあけ廊へ出て九月の外気に触れて見た。谷底の様な四万の夜は真暗だ。しかしその色のない闇の中にも川の幅を示してゐる闇もあり、山の高さを現はしてゐる闇もあつて、ちやんと区分され、その上に星空が乗つてゐるのであつた。
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