の挽歌を詠まれ寝園と題して公表された。何れも金玉の響きを発する秀什である。これからその内の幾つかを拾つて当時を偲ぶことにしよう。吉田さんには旧夢茫々とうつる過去も私の目にはもつと濃い形に現はれる。「それよりも濃く我に現はる」とは如何だ、日本語も斯うなると字面から光が射すやうだ。

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ある宵の浅ましかりし臥所思ひぞ出づる馬追啼けば
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 道を迷ひその内日が暮れてしまひ山小屋みたやうな所で仮寝をしたことがある。それを思ひ出した。灯を慕つて飛んで来た馬追が啼き出した為である。その夜も馬追がしきりに啼いてゐた。浅ましかりしとは云ふものの実は懐しい楽しい思ひ出なのである。

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青空の下《もと》に楓の拡りて君亡き夏の初まれるかな
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「青空の下に楓が拡がる」初夏の光景を抒してこれ以上に出ることは恐らく出来まい。それだけはじめての夏を迎へる寡婦の心持がまざまざと出て居る。

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河烏水食む赤き大牛を美くしむごと飛び交ふ夕
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 これも亦玉川の夏の夕らしい光景であるが、万有の上に注がれるこの作者の温かい同情がここでは河烏の上に及んで、牛を中心に一幅の平和境を形作らせてゐることが注目される。作者の自然を見るやいつもかうして同情心が離れない。それ故に景を抒しつつ立派な抒情詩となるのである。

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我机地下八尺に置かねども雨暗く降り蕭かに打つ
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 寛先生は如何いふわけか火葬が嫌ひだといふことなのでその感情を尊重して特に許可を受けて土葬にした。その為、多摩墓地の赤土に恐ろしく深い穴を掘つて棺をその中へ釣り降ろした。この歌の地下八尺はそれをいふのであるが、字面は木下杢太郎君の発明したものを借用したらしい。五月雨がしとしと降つて居る、世の中は暗い。丸で地下八尺の処に眠つてゐる君の側へ私の机を据ゑた感じだ。

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わが心寂しき色に染むと見き火の如してふ事の初めに
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 火の如き事の初めとは恐らく交歓第一夜を斥すのであらう。その時心を走つた一抹の寂しさがあつた、それを私は忘れることが出来ないといふのであらう。これは炉上の雪でなく、火の中の氷といふ感じで誰も恐らく味はつたのでは無からうか。

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一人にて負へる宇宙の重さよりにじむ涙の心地こそすれ
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 君と暮した四十年間十余人の子女を育てて私は重荷を負ひ続けて来た、しかし半ばは君に助けられつつ来たのである。今は一人で全宇宙を背負ふことになつたのであるから、その重さからでも涙はにじみ出るであらう。又ついで 業成ると云はば云ふべき子は三人他は如何さまにならんとすらん とも歎いて居られるが結果は一人の例外なくこれら凡ての子女をも女の手一つで立派に育て上げられたのであるから驚き入る外はない。

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もの欲しき汚な心の附きそめし瞳と早も知りたまひけん
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 君に対する時だけは少くも純真な心でありたいと心掛けて来たが、この頃はいつしか人間の本性が出て来てそれが色にも顕はれるやうになつた。敏感な君のことだからとうにそれに気づいて居られるのであらう。ああいふ御言葉が出るのもその為であらう。「どうしたらよからう、恥しいことでもある」先づこんなことでは無からうかと思はれるが、よくは分らない。

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君が行く天路に入らぬものなれば長きかひなし武蔵野の路
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 何時の日であつたか、皆で多摩墓地へ詣でた事がある。その帰途車がパンクして仕方なしにぽつぽつ歩き出したことがあつた。それによつて多摩に通ずる街道の真直ぐでどこまでも長いことを皆身にしみて経験した。君の辿られる天路へ之が通ずるものならこの長い長い武蔵野の路もその甲斐があるのだがと、この一些事さへ立派な歌材を提供したわけであつた。

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来啼かぬを小雨降る日は鶯も玉手さしかへ寝るやと思ふ
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 愛情の最も純粋な優にやさしい一面を抽出して他を忘れた場合斯ういふ歌が出来る。糸の様な春雨が降り出した。それに今朝は鶯の声がしない、きつと雨を聞きながら巣の中で仲よく朝寝をして居るであらう。今日の様な世相からこんな歌の出来た明治の大御代を顧るとまるで※[#言+虚、第4水準2−88−74]のやうな話である。

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魂は失せ魄滅びずと道教に云ふごと魄の帰りこよかし
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 人の生じて始めて化するを魄と曰ひ、既に魄を生ず、陽を魂と曰ふ(左伝)又魂気は天に帰し、形魄
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