の霧の香に咽ぶ君あらぬ後杜鵑と我と
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五月の若葉時の足柄は好天必ずしも続かず雨や霧の日も多い。その霧の足柄山を包んだ日にその中でほととぎすがしきりに啼き出した。君と共に咽ぶ筈の山の霧であるが君なき後とて図らずも杜鵑と二人で咽んでゐる所ですとあの世の人へ報告する心持も持つてゐるやうな歌である。
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戸を繰れば厨の水に有明の薄月射しぬ山桜花
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昔はどこの家にも水甕といふものがあつて一杯水が張つてあつたものだ。朝起きた主婦が台所の戸を繰ると水甕の水から怪しい光が反射してゐる。それは有明の月の光のやうな明るさである。よく見ると外《そと》の山桜の花が映つてそれが光つてゐたのであつた。つまり春の朝の山桜の花の心が薄月の感じで表現されてゐるわけだ。
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ほととぎす山に単衣《ひとへ》を著れば啼く何を著たらば君の帰らん
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山の初夏も稍進んで袷を単衣に著替へたらその日からほととぎすが啼き出した。今度何に著替へたら君が帰つてくるのだらう。一々の景物が一々心を掻き乱す種となつた時期の作。
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喜びは憂ひ極る身に等し二年三年高照る日見ず
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心に大きな心配事を持つてゐる人は自分の頭の上に杲々と日が輝いてゐることなどは忘れてゐる。それはさうあるべきことだ。しかし私の場合はその反対で、喜びに溢れてゐるのであるが、この二年三年といふものやはり太陽など見上げたこともない。して見れば喜びも憂ひもそれが大きい場合には結果は同じである。物を対照させて効果をあげる一班の表現法があるがこれもその一例である。
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ほととぎす虎杖《いたどり》の茎まだ鳥の脚ほど細き奥箱根かな
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青葉若葉に掩はれた早雲山の自然林は目が覚める様に美しいが、その下を歩いて根方を観察すると虎杖の茎などまだ鳥の脚の様に細い。さすがに奥箱根である。それだからほととぎすも啼くのだ。
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鳥立《とだち》見よ荊棘《おどろ》のかげの小雀《こがら》だに白鷹|羽《は》伸《の》す形して飛ぶ
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鳥の飛び立つ勢ひを見るがよい。籔蔭から飛び立つ小さな雀でさへ、白鷹の羽根を伸ばす形と同じ形をして飛び立つではないか。まして人間、為すあらんとする人間の出発だ、よく見るがよい、勢ひのよさを。先づこんな意味ではないかと思ふがはつきりは分らない。
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山暗し灯の多かりし湯本とてはた都とてかひあるべしや
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さすがに山奥の庭は暗い。暗いので余計にものが思ひ出され悲しさも加はるやうだ。しかしそれだからと云つてここへ来る途に立ち寄つた灯の多くついた湯本へでも行つたら少しは慰むだらうか、一そ明るい東京の家へ帰つたらとも思はれるが、よしないことでさうしたとて同じことだ。
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花鎮祭に続き夏は来ぬ恋しづめよと禊してまし
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「花鎮祭」は昔、桜の花の敵る頃、疫病を鎮める目的で神祇官の行つた神事。鎮花祭も済んでいよいよ夏になつた。それにつれて私の恋心も日ましに猖獗を極める、そこで今度は恋鎮祭です、そのため禊をして身を浄めませう。鎮花祭の行事の如きは忘られて久しい、作者が古典の中から採り出して之に新生命を吹き込む手腕の冴えいつもながら見事なものだ。
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見出でたる古文によりやるせなく君の恋しき山の朝夕
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寛先生歿後書翰などの蒐集が行はれた。それを夫人は先に 亡き人の古き消息人見せぬ多少は恋に渡りたる文 と歌はれたが、それらを一括して箱根へ持つて行つて整理された。その中の一通にひどく昔を思ひ出させるものがあつたのであらう。
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河芒ここに寝ばやな秋の人水溢れてば君と取られん
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これも亦昔の秋の玉川の風景である。芒が暖かさうに秋の強い日射しを受けて真綿のやうに光つて居る。それを折敷いて寝たらさぞ気持がよからう。秋の水が溢れて来たらそのまま溺れてしまはう、君と一しよならかまはない。秋をテマにした軽快な情調である。
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茫々と吉田の大人《うし》に過去の見えそれよりも濃く我に現る
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寛先生歿後、先生と晩年十五年間親交を続けた説文学者吉田學軒氏は五七日に当つて夫人に一詩を呈した。曰く。楓樹蕭々杜宇天。不如帰去奈何伝。読経壇下千行涙。合掌龕前一縷香。志業未成真可恨。声名空在転堪憐。平生歓語幾囘首。旧夢茫々十四年。夫人は直ちにこの詩の五十六字を使つて五十六首
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