い島にたまたま涌き出してゐる泉と、阿房鳥の信天翁と、これ丈の景物を絵具として描出した一枚の絵である。これを鑑賞するものは、果してそれらが旨く纏つて一個の小天地を成してゐるか如何か、それを調べて見るわけである。

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ほととぎす雨山荘を降りめぐる夜もまた次の暁も啼く
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 ほととぎすが一晩中啼く、それを作者は強羅の山荘で聞くのであるが、夜は大雨で山荘を中にとり囲む様な気持で降つて居る、その雨の音を衝いて甲高いほととぎすの声が聞こえる、[#「、」は底本では欠落]作者はそれを聞きながら寝てしまつた、夜が明けて目が覚めると雨はやんだがほととぎすはなほ啼いてゐる、恐らく一晩中啼いてゐたのであらう。この歌にはさういふ場合が特定されてゐるのである。

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旅人は妻が閨なる床《ゆか》に栖む蟋蟀思ふ千屈菜《みそはぎ》の花
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 旅人が留守する妻を思ふ歌の代表的なものの一つに軍王の 山越しの風を時じみ寝る夜落ちず家なる妹をかけて偲びつ といふのがある。上代人の単純な線の太い健康さの出てゐる歌である。当時私達は万葉集をしきりに研究した。晶子さんは別に理由があつて余り好まれなかつたが、それでも埒外には出なかつた。唯我々は他と違つて万葉をまねようとはしなかつた。しかし旅に出た男が家にある妻を思ふといふ様なテマのあるのは、やはり万葉を読んだ影響のあらはれでもあらう。しかしテマを万葉に仮りただけで、吾々の作る処は常に現代の歌であつた。而して万葉人などの夢にも想到しない繊度と新味とを出さうと努めたのであつた、作者は千屈菜の花の咲いてゐるのを見てふと蟋蟀の事を思つた。これは近代人の感覚である。併しそれはモチイフであつて詩即ち芸術品にはまだならない。この感じは何かに具象されなければならない、而してその場合が特殊なものであるほど芸術品としての値は高くなるわけである。そこで作者は先づその蟋蟀を閨の床下で啼くものに特定し、またその閨を夫を旅に出した妻の空閨に限定し、感覚の持主をその旅に出てゐる夫としたのである。さういふ段取りで一個の芸術品としてのこの歌が出来上る。これは私の勝手気儘な臆測であるが順序立てて考へるとこんな風にもなるかといふ事を歌を作る人の御参考までに記したに過ぎない。而してモチイフたる感覚が近代感覚であるので、結果も万葉の旅人の感情などとは丸で違つてくるのである。

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ほととぎす明星岳によりて啼く姿あらねどさばかりはよし
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 朝早く起き日の覚める様な青葉の色を楽しんでゐると、向ひの明星山でほととぎすが啼き出した。声はあるがほととぎすの常として姿は見えない。姿の見えないといふ事は故人の場合には既にこの世の中に居ないといふことを表はしてゐて、私はその為に日夜悲しんでゐる。然るにほととぎすの場合は姿が見えずともちやんと生存して啼いてゐるのだ。姿のないのもこの程度なら歎くにも当るまいに、私の場合はさうでないから困るのである。

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白刃もて刺さんと云ひぬ恋ふと云ふ唯事千度聞きにける子に
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 私の手には白刃があります、これであなたを刺す為に私は来ました。私は斯う云つてしまつた。何故ならその男は多くの女に思はれ、その度に I love you のノンセンスを千度も聞いたわけで、何の感じもあるまいと思つたからである。私の場合に限つてそれがどんなに他の友達の遊戯と違つてゐるかを初めから知らせる為であつた。しかしそれは冗談ではない。私としてはほんとうに刺し兼ねないのだ。作者の之を作つた時の気持の中にはこんな感じも少しはあつただらうか。

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ゆくりなく君を奪はれ天地も恨めしけれど山籠りする
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 寛先生の亡くなられたのは全く偶然の結果であつて罪は旅行にある。それ故に「ゆくりなく」といひ、天地即ち山川を恨むといふのである。君を奪つたのは天地であり自然の風光である、それを思へば恨めしいが、その恨めしい天地の恩を得るためにまた私が来て山籠りをする、[#「、」は底本では欠落]をかしいことがあるものだ。

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素足して踏まんと云ひぬ病める人白き落花の夕暮の庭
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 早く盛りを過ぎた桜が夕暮の庭を白く見せる程吹雪のやうに散つて居る。直り方の病人が出て来てそれを見て、ああ素足でその上を踏んで見たいなと云つた。家の中を歩くのが漸くでまだ外へは出ない病人のことだから、降りてあの柔かさうな落花を素足で踏んだらさぞ気持のよい事だらうと思うのは成るほどもつともだと作者の同情してゐる歌であらう。

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足柄の五月
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