し、おちおち眠ることもならず、遂に夜が明けてしまふ。をかしいほどの弱虫だが、事実はさうなのだから仕方がない。

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紫の乾くやうにもあせて行く箱根の藤に今は似なまし
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 一人になつたこれからの私のあるべきやうは。それは唯この箱根の藤の花の、時過ぎては乾くやうに日々少しづつ衰へて行けばそれでよいのであらう。

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遠き火事見るとしもなきのろのろの人声すなり亥の刻の街
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 火事は一つばんで遠い。それにも拘らず、火事とさへ云へば見えても見えずとも飛び出して見るのが街の人だ。遠いので話し声も一向弾まないが、これが今夜午後十時の街の光景である。冬になると毎晩半鐘を聞いた昔の東京の場末の情調がよく出て居る。

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足柄の山気《さんき》に深く包まれてほととぎすにも身を変へてまし
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 ほととぎすを不如帰と書くのはその啼き声の写音であらうが、帰るに如かずといふ言葉の意味から色々支那らしい伝説が生れ、ほととぎすに転身して不如帰不如帰と啼く話なども出来てゐる。そんなことも或はこの歌のモチイフになつて居るかも知れないが、初夏の山深い処で直ちにその啼くのを聞いたら、傷心の人誰も血に泣くほととぎすに為り度くなるであらう。しかしこの歌の響きは必ずしもそんな血涙数行といふ様な悲しいものではない。むしろ前三句の爽快な調子が、伝説的悲劇性を吹き飛ばしてゐるので、反つて明朗なすがすがしい気分のほととぎすが感ぜられる許りである。

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まじものも夢も寄りこぬ白日に涙流れぬ血のぼせければ
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 明るい真昼間、何の暗い影もない白日の下で、涙が溢れるやうに出て来るのは如何したことであらう。虫物《まじもの》のせゐでも夢のせゐでもあり得ない。血が頭に上つたからだ、外にわけはない。それならなぜ血が上つたのか、答ふるにも及ぶまい。

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許されん願ひなりせば君が死をせめて未来に置きて恐れん
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 この歌の値打ちは最後の「恐れん」の一句にある。この考へは遂に常人の考へ及ばざる所で、一人晶子さんに許された天恵のやうなものだ、これあるが為に歌が生きて来るのである。君の死を未来に置きたい位は誰も望む所であるが、置いて恐れようとは普通は考へないのである。既に恐れようといふのであるから、未来へ持つていつても現在に比しそれほどよいことにはならない。そこで許されん願ひなりせばと大袈裟にはいふものの、無理なえて勝手な願ひでも何でもない、今と大した変化を望んではゐないことになる。非望は人の同情を惹かない、もし「恐れん」がなかつたら非望になるのである。この歌の生命を分解すると先づこんなことにならうか。

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ほととぎす東雲時《しののめどき》の乱声《らんじやう》に湖水は白き波立つらしも
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 これも赤城山頂の大沼などを想像しての作であらう。山上の初夏、明方ともなれば、白樺林にはほととぎすが喧しい位啼き続けることだらう、その声が水に響いて静かなまだ明けきらぬ湖水には白波が立つことだらう。作者はこんな想像をめぐらして楽しんでゐる、而してそれを歌に作つて読者に頒つのである。

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宮の下車の夫人おしろいを購ひたまふさる事もしき
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 多分同行の近江夫人が先に帰られるのを送つて宮の下まで車で行かれた時、作者が降りると夫人も降りて、序に店へ入つて汽車中の料にする積りか何かの白粉を買つたのであらう。それを見て嘗ては私もこんなこともしたのだと往時を囘顧したわけである。この歌の面白さは、しかし、買ふものが白粉である所に存するので、さういふことは優れた作者だけが弁へてゐる。

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ませばこそ生きたるものは幸ひと心めでたく今日もありけれ
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 生の喜びまたは生命の幸福感を詠出したものであらうが、そののんびりした調子に何となく源氏の君を迎へる紫の上のやうな心持が感ぜられないでもない。

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山山が顔そむけたる心地すれ無残に見ゆる己れなるべし
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 山を見るに、けふは如何したことか、どの山にも皆顔を背けたやうな形が見える。私の姿がけふは特にみじめに見える為、見るに忍びないのであらう。一種のモノロオグで、わが衰へを自ら怪しむ心の影が山に映じ山をして顔をそむけしむるのである。

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椿散る島の少女の水汲場信天翁は嬲られて居ぬ
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 伊豆の大島の様なのどかな風光を描出する歌。椿と、少女と、水の少
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