うとしたことがあつたがそれが出来なかつたことを覚えてゐる。今から見れば夢の様な話だが、若い頃の真剣な気持はそんなものであつたといふのであらうか。

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若き日に帰らんことを願はざりただ若さをば之に加へよ
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 若いといふことは一面愚かなことでもある。だから若い頃にも一度帰りたいなどとは決して思はない。しかし若いといふことは逞しい力の働くことでもある。私は今若さから遠ざかつて愚かしさはなくなつて行くが、元気も同様に減つてゆく。そこで今日の熟成はその儘にしてその上に元気のよい若さだけを加へて欲しいと思ふ。ここにも常に進歩して止まない作者の心柄が出てゐる。

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移り住みやがて都の恋しさに心の動く秋の夕風
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 夫妻は明治四十二年に千駄ヶ谷を出て町の人となり神田紅梅町から、中六番町、富士見町と十八年間を市内に送つたが、昭和二年荻窪の新居が落成してここに移り再び里住みの身となつた。ただ往来のみあつて家のなかつた当時の辺鄙な荻窪は都人の住み得る処ではなかつた。私は当時芝三光町に居てさへさう思つた。この歌は移居の後暫く経つて[#「経つて」は底本では「径つて」]秋の進んだ夕方に詠まれたものらしい。

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わが鏡顔はよけれど寒げなる肩のあたりは写らずもがな
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 歌が散文でなく外国の詩のやうに韻は踏まないまでも定形の律文である以上必ず「調べ」が存在し、それが歌の価値を最高度に支配するものであることを私は固く信じ且つ史的にも実証してゐるから誰が何と云はうと変らない。私にすれば、最も調べの高かつたのは藤原期までで、奈良朝となつては最早下り坂である。古今集以下「調べ」などいふほどのものは最早存在しなくなつたが、定家頃に至つて漸く一種の型が出来て来た。しかしそれは恐ろしく人工的なもので、丸で精巧な細工物に過ぎず、生命など籠り様もない代物であつた。而して明治に至つたのである。その間にも幾人か万葉を取り上げ、定家型式の破壊を試みた人があつたがものにならなかつた。その理由は万葉の善悪を識別する丈の眼識に欠けてゐたからである。万葉に眩惑せられたからであつた。それを與謝野先生が出て先づ「小生の歌」で徹底的に破壊してしまつた。新詩社の新風はその大破壊の上に酷しい修練の結果
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