て飛び立つではないか。まして人間、為すあらんとする人間の出発だ、よく見るがよい、勢ひのよさを。先づこんな意味ではないかと思ふがはつきりは分らない。
[#ここから2字下げ]
山暗し灯の多かりし湯本とてはた都とてかひあるべしや
[#ここで字下げ終わり]
さすがに山奥の庭は暗い。暗いので余計にものが思ひ出され悲しさも加はるやうだ。しかしそれだからと云つてここへ来る途に立ち寄つた灯の多くついた湯本へでも行つたら少しは慰むだらうか、一そ明るい東京の家へ帰つたらとも思はれるが、よしないことでさうしたとて同じことだ。
[#ここから2字下げ]
花鎮祭に続き夏は来ぬ恋しづめよと禊してまし
[#ここで字下げ終わり]
「花鎮祭」は昔、桜の花の敵る頃、疫病を鎮める目的で神祇官の行つた神事。鎮花祭も済んでいよいよ夏になつた。それにつれて私の恋心も日ましに猖獗を極める、そこで今度は恋鎮祭です、そのため禊をして身を浄めませう。鎮花祭の行事の如きは忘られて久しい、作者が古典の中から採り出して之に新生命を吹き込む手腕の冴えいつもながら見事なものだ。
[#ここから2字下げ]
見出でたる古文によりやるせなく君の恋しき山の朝夕
[#ここで字下げ終わり]
寛先生歿後書翰などの蒐集が行はれた。それを夫人は先に 亡き人の古き消息人見せぬ多少は恋に渡りたる文 と歌はれたが、それらを一括して箱根へ持つて行つて整理された。その中の一通にひどく昔を思ひ出させるものがあつたのであらう。
[#ここから2字下げ]
河芒ここに寝ばやな秋の人水溢れてば君と取られん
[#ここで字下げ終わり]
これも亦昔の秋の玉川の風景である。芒が暖かさうに秋の強い日射しを受けて真綿のやうに光つて居る。それを折敷いて寝たらさぞ気持がよからう。秋の水が溢れて来たらそのまま溺れてしまはう、君と一しよならかまはない。秋をテマにした軽快な情調である。
[#ここから2字下げ]
茫々と吉田の大人《うし》に過去の見えそれよりも濃く我に現る
[#ここで字下げ終わり]
寛先生歿後、先生と晩年十五年間親交を続けた説文学者吉田學軒氏は五七日に当つて夫人に一詩を呈した。曰く。楓樹蕭々杜宇天。不如帰去奈何伝。読経壇下千行涙。合掌龕前一縷香。志業未成真可恨。声名空在転堪憐。平生歓語幾囘首。旧夢茫々十四年。夫人は直ちにこの詩の五十六字を使つて五十六首
前へ
次へ
全175ページ中64ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平野 万里 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング