夢と人生
原民喜

 夢のことを書く。お前と死別れて間もなく、僕はこんな約束をお前にした。その時から僕は何も書いていない夢に関するノートを持ち歩いているのだ。僕は罹災後、あの寒村のあばら屋の二階で石油箱を机にして、一度そのノートに書きかけたことがある。が、原子爆弾の惨劇を直接この眼で見てきた僕にとっては、あの奇怪な屍体の群が僕のなかで揺れ動き、どうしても、すっきりとした気持になれなかった。そうだ、僕はあの無数の死を目撃しながら、絶えず心に叫びつづけていたのだ。これらは「死」ではない、このように慌しい無造作な死が「死」と云えるだろうか、と。それに較べれば、お前の死はもっと重々しく、一つの纏まりのある世界として、とにかく、静かな屋根の下でゆっくり営まれたのだ。僕は今でもお前があの土地の静かな屋根の下で、「死」を視詰めながら憩っているのではないかとおもえる。あそこでは時間はもう永久に停止したままゆっくり流れている……。
 僕は夢のノートを石油箱の上に置いて思い耽けっていた。僕のいる二階は火の気もなく、暗い餓じい冬がつづいていた。と、ある日、はじめて春らしい日が訪れた。快い温度がじっと蹲っている僕にも何かを遠くへ探求させようとするのだった。あばら屋の二階には、たまたま兄が疎開させていた百科辞典があった。それを開いてみると、花の挿絵のところが目に触れた。すると、これらの花々は過ぎ去った日の還らぬことどもを髣髴と眼の前に漾わす。僕はあの土地へ、嘗てそれらの花々が咲き誇っていた場所へ行ってみたくなった。魅せられたように僕はその花の一つ一つに眺め入った。
 しゃか。カーネーション。かのこゆり。てっぽうゆり。おだまき。らん。シネラリヤ。パンジー。きんぎょそう。アマリリス。はなびしそう。カンナ。せきちく。ベチュニア。しゃくやく。すずらん。ダリア。きく。コスモス。しょうぶ。とりとこ。グロキシニア。ゆきわりそう。さくらそう。シクラメン。つきみそう。おいらんそう。福寿草。ききょう。ひめひまわり。ぼけ。うつぼかずら。やまふじ。ふじ。ぼたん。あじさい。ふよう。ばら。ゼラニューム。さざんか。つばき。しでこぶし。もくれん。さつき。のばら。ライラック。さくら。ざくろ。しゃくなげ。まんりょう。サボテン。……僕はノートに花の名を書込んだままだった。

 僕は小さな箱のなかにいる。僕は石油箱に夢のノートや焼残りの書物を詰めて、それから間もなく東京へ出て来た。僕を置いてくれた、その家は、ガラスと板だけで出来ている奇妙な家屋だが、その二階の二・五米四方の一室に寝起するようになった。僕はその板敷の上で目が覚めるたびに、何か空漠とした天界から小さな箱のなかに振り落されている自分を見出す。僕のいる小さな箱のなかには、焼残ったわずかばかりの品物と僕のほかには何にもない。……何にもない、僕はもう過去を持っていない人間なのだろうか。眼が昏むほどお腹が空いて、板敷の上に横わっていると、すりガラス越しに箱の外の空気が僕の瞼の上に感じられる。窓の下のすぐ隣りの家には、ささやかな庭があって、萌えだしたばかりの若葉が縁側の白い障子に映っている。あそこには、とにかく、あのような生活があるのだ。僕が飢えて、じりじり痩せ衰えてゆくとしても、僕にはまだ夢のようなことを考えることができそうだ。夢は、この夢はどこから投影してくるのだろうか。メリメリと壊れそうなガラス窓に映っている緑色の光……あの光はお前なのか、それとも僕なのだろうか。
 ある日、僕は何かに弾きだされたように、千葉の方へ出掛けて行った。あの家が残っているかどうか、僕にはわからなかったのだが、電車がその方向に接近して行くに随い、水蒸気を含んだ麦畑の崖が見えて来たりすると、僕は昔の僕に還っていた。家に戻れば、お前の病床もそのままあって、僕は何の造作もなくお前の枕頭に坐れるかもしれない……。その方向に接近するにつれ殆ど自分でも見定め難いさまざまの感覚がそっくり甦って来るようだった。僕はお前の側に坐るときの表情まで用意していた。……駅で電車を降りると、僕は一目見て、あたりの景色が以前のまま残っているのを知った。僕は勝手知った袋路の方へとっとと歩いて行った。すると、つい四五時間僕はこの場所を離れて他所へ行っていただけのような気持がした。ふと近所のおかみさんの顔が少し驚きを含んで僕の方を振向いていた。僕はあの家の七八歩手前で立ちどまった。僕の眼は板垣の外へ枝を張っている黐の樹の青葉に喰い入っていた。それから僕はあの家の方へ近づいた。それから僕は板垣の外から、あの狭い小さな庭にじっと目を注いでいた。すぐ向の縁側から、何かがちらっと爽やかに僕の眼に見えた。それは僕の心の内側の反映があの縁側にあったのだ。それは忽ち無限に展がってゆきそうだった。だが、気がつくと、その縁側では見知らぬ子供が不審げにこちらを見ているにすぎなかった。そうか、今ではあそこに見知らぬ人が住んでいるのか。そうか、しかし、とにかく家は残っていたのだったか。僕は自分に云いきかせて、その場所を立去った。僕は海岸の方へ出る国道や焼跡のバラックの路をじりじりした気分でひとり歩き廻っていた。空気のにおいや、どよめきや、過去と繋りのある無数の類型や比喩が僕のまわりを目まぐるしく追越そうとする。……そして、東京へ戻って来ると、僕は再びあの小さな箱のなかに振り落されているのだった。
 僕はX大学の図書館の書庫のことは書いておきたい。この学校の夜間部の教師の口にありついた僕は餓じい体を鞭打ちながら、いつも小さな箱のなかから、ここへ出掛けて来る。ここでは焼け失せた空間と焼け残った空間が罅割れた観念のように僕の眼に映る。坂の石段を昇りつめたところにある図書館も赤煉瓦の六角塔は崩れ墜ちて、鉄筋の残骸ばかりが見えている。僕は昔、あの赤煉瓦の塔を見上げたとき、その上にある青空が磨きたての鏡のようにおもえたのを憶えているので、どこか僕のなかには磨きたての新鮮な空気がまだありそうな気もする。表の閲覧室の方は壊れたままだが、裏側にある書庫は無事に残っているのだ。僕はあるとき、入庫証をもらうと、はじめてその書庫のなかに這入ることが出来た。重たい鉄の扉を押して、ガラスの破片などの散乱している仄暗い地下室に似た処を横切ると、窓のところに受附の少年がいた。そこから細い階段を昇って行くと、階上はひっそりとして、どの部屋もどの部屋も薄明りのなかに書籍が沈黙しているのだった。僕はいま、受附の少年のほかに、この建物のなかには誰も人間がいないのを感じた。それから、窓の外にある光線はかなり強烈なのに、この書庫に射して来る光は、ものやわらかに書物の影を反映しているようだった。僕はゆっくり部屋から部屋を見て歩いた。「イーリヤス」「ドン・キホーテ」など懐しい本の名前が見えて来る。どの書物もどの書物も、さあ僕の方から読んでくれたまえと、背文字でほほえみかけてくるようだ。僕はへとへとになりながら、時間を忘れ、ものに憑かれたように、あちこち探し歩いた。だが、何を探しているのか、僕には自分でもはっきりわからないようだった。
「これは全世界を失って自己の魂を得た者の問題である」
 借りて来た書物のなかから、この言葉を見出したとき僕は何かはっとした。ジェラル・ド・ネルヴァルのことを誌したその数頁の文章は怕しい追憶か何かのように僕をわくわくさせる。「理性と称する頭脳の狂いない健全さのなかに、我々の諸能力を結合している鎖の薄弱さに就いて、その鎖が、過ぎゆく夢の羽搏きにも破れるほど脆く細々と擦り減ったように見える時がありはしないか。……眠れない夜々、心を痛めて待ちあぐむ日々に突然的な事件の衝動、こういうありふれた悩みの一つでも、人の神経のなかにある調子はずれの鐘を乱打するに充分であろう」と、その書物は悲しげに語っている。が、僕にはあのアドリイヌと呼ぶ少女のことも、青いリボンの端に結んで匍わせていた一匹の大鰕のことも、突然、幻想の統制力が崩れた惨めな瞬間のことも、何か朧気に心おぼえがあるのではないかという気がして来る。だが、僕はあのネルヴァルが書いたという「夢と人生」はまだ読んだことがないのだ。
 ふと僕は図書館の地下室の椅子に腰かけていた昔の自分もおもいだす。学生の頃、あそこは休憩室になっていたが、はじめて僕があの地下室に這入って行ったのは、朝から夢のような雨が煙っている日だった。室内は湿気と情緒に満たされていた。僕が窓際のテーブルに肘をついて椅子に腰かけると、僕の眼の位置の高さに窓の外の地面が見えた。視野は仄暗い光線とすぐ向側にある建物に遮られてひどく狭められていたが、雨に濡れている芝生の緑が何か柔かい調子を僕のなかに誘った。その時、僕は世界がすべて柔かい調子で優しく包まれているようにおもえた。僕の視野が狭くとも僕の経験が乏しく僕の知識が浅くとも、僕を包んでいる世界は優しく僕を受入れてくれそうだった。僕は世界が静かな文章の流れのようにおもえた。あのとき僕はその流れのなかに立停まっていたのではないか。僕はしずかに嗟嘆した。まるでもう一つの生涯を畢えて回想に耽けっているもののようであった。
 だが、学生の僕は、僕の上にかぶさる世界が今にも崩れ墜ちそうになる幻想によく悩まされた。ときどき僕の神経は擦り切れて、今にも張り裂けるかとおもえた。僕は東京駅の食堂に友人と一緒にいた。衰弱した異常なセロファンのような空気が僕の眼の前から、その食堂の円天井まで漲っているのだった。僕の向に友人がいるということも、僕の頭上に円天井があるということも、刻々に耐え難くなり、測り知れないことがらのようになっていた。……おお、僕の今いる小さな箱の天井は僕の瞬き一つでも墜落しそうになる。僕は箱のなかを出てゆく。
「何処に私の過去を蔵って置かれようか。過去はポケットの中には入らない。過去を整頓して置くためには一軒の家を持つ事が必要である。私は自分の身体しか持たない。まったく孤独で、自分の身体だけより他には何も持たない男は思い出を止めて置くことが出来ない。思い出はこの男を斜に通り抜ける。私は嘆くべきではなかったであろう」
 ロカタンスの言葉が僕の歩いている靴の底から僕に突上げて来る。僕は箱のなかを抜け出して、駅に出る坂路を歩いてゆく。思い出はこの男を斜に通り抜ける……斜にこの男を。だが思い出は坂下に見える駅の群衆にも氾濫している。あのように思い出は昔から氾濫していたのか。僕は今の今の僕の思い出を掴みたい。僕はぼろぼろの服と破れ靴を穿いている。僕は飢えとおしで、胃袋は鏡のようにおもえる。この鏡には並木路の青葉が映るようだ。そのなかを乞食に似た男が歩いている。歩いている。歩いている。そうだ、僕は死ぬ日まで歩かねばならないのだろう。僕はもうあの小さな箱のなかにはいない。あの場所を立退けと命じられている僕だ。僕はやはり自分の身体しか持たない人間なのか。突然、暗闇が滑り墜ちた。あのとき突然、僕の頭上に暗闇が滑り墜ちて来た。それから何も彼も崩壊していた。それから僕は惨劇のなかを逃げ廻った。突然、暗闇が滑り墜ちた。僕の歩いている側に流れてゆく群衆、バラック、露店……思い出は僕と擦れちがう。比喩や類型が擦れちがう。擦れちがう僕には何にもない。何にもない。僕は既に荒々しく剥ぎとられた人間。荒々しく押寄せてくる波が僕を……。
 僕の人生は小説か何かのようにうまく排列されては行かないようだ。僕はこの振り落されている箱のなかで夜どおし一睡もしない。この場所を立退かねばならないという脅迫が僕の胸を締めつけるようだが、何か僕はもっとはてしないものを胸一杯吸い込んでいるのかもわからない。これは僕をとり囲んでいる日毎の辛さとも異う。熱っぽく、懐しく、殆どとらえどころのないもの、だが、すぐ側にある。そうだ、僕は僕の身体の隅々に甦ってくるお前の病苦の美しさにみとれているのだ。滅茶苦茶に悲しい濁ったものを突破ろうとして冴えてゆくものを……。

 お前はよく僕に夢の話をしてくれた。たった今みたばかりの夢を語るとき、お前はそ
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