……おお、僕の今いる小さな箱の天井は僕の瞬き一つでも墜落しそうになる。僕は箱のなかを出てゆく。
「何処に私の過去を蔵って置かれようか。過去はポケットの中には入らない。過去を整頓して置くためには一軒の家を持つ事が必要である。私は自分の身体しか持たない。まったく孤独で、自分の身体だけより他には何も持たない男は思い出を止めて置くことが出来ない。思い出はこの男を斜に通り抜ける。私は嘆くべきではなかったであろう」
ロカタンスの言葉が僕の歩いている靴の底から僕に突上げて来る。僕は箱のなかを抜け出して、駅に出る坂路を歩いてゆく。思い出はこの男を斜に通り抜ける……斜にこの男を。だが思い出は坂下に見える駅の群衆にも氾濫している。あのように思い出は昔から氾濫していたのか。僕は今の今の僕の思い出を掴みたい。僕はぼろぼろの服と破れ靴を穿いている。僕は飢えとおしで、胃袋は鏡のようにおもえる。この鏡には並木路の青葉が映るようだ。そのなかを乞食に似た男が歩いている。歩いている。歩いている。そうだ、僕は死ぬ日まで歩かねばならないのだろう。僕はもうあの小さな箱のなかにはいない。あの場所を立退けと命じられている僕だ。僕はやはり自分の身体しか持たない人間なのか。突然、暗闇が滑り墜ちた。あのとき突然、僕の頭上に暗闇が滑り墜ちて来た。それから何も彼も崩壊していた。それから僕は惨劇のなかを逃げ廻った。突然、暗闇が滑り墜ちた。僕の歩いている側に流れてゆく群衆、バラック、露店……思い出は僕と擦れちがう。比喩や類型が擦れちがう。擦れちがう僕には何にもない。何にもない。僕は既に荒々しく剥ぎとられた人間。荒々しく押寄せてくる波が僕を……。
僕の人生は小説か何かのようにうまく排列されては行かないようだ。僕はこの振り落されている箱のなかで夜どおし一睡もしない。この場所を立退かねばならないという脅迫が僕の胸を締めつけるようだが、何か僕はもっとはてしないものを胸一杯吸い込んでいるのかもわからない。これは僕をとり囲んでいる日毎の辛さとも異う。熱っぽく、懐しく、殆どとらえどころのないもの、だが、すぐ側にある。そうだ、僕は僕の身体の隅々に甦ってくるお前の病苦の美しさにみとれているのだ。滅茶苦茶に悲しい濁ったものを突破ろうとして冴えてゆくものを……。
お前はよく僕に夢の話をしてくれた。たった今みたばかりの夢を語るとき、お前はその夢がお前の身体のなかを通って遙かなところへ消えてゆくのを、じっと見送るような顔つきをしていた。お前には夢の羽搏が聴えたり、その行手が見えるのだろうか、無形なものを追おうとするお前の顔つきには何か不思議なものがあった。僕はお前と同じように不思議な存在になれないのを不思議におもったが、お前にとっては、やはり僕がお前の夢の傍にいてその話をきいていることが、ふと急に堪え難く不思議になったのかもしれない。そして、そういう気分はすぐ僕の方にも反映するようだった。僕たちが生きている世界の脆さ、僕たちの紙一重向に垣間見えてくる「死」……何気なく生きている瞬間のなかにめり込んでくる深淵……そうした念想の側で僕はまた何気なく別のことを考えていたものだ。お前が生れて以来みた夢を一つ一つ記述したらどういうことになるのだろうか、それはとても白い紙の上にインクで書きとめることは不可能だろう、けれども蒼空の彼方には幻の宝庫があって、そのなかに一切は秘められているのではなかろうかと。……美しい夢が星空を横切って、夜地上に舞降りて僕を訪れて来ても、僕の魂は澄みきっていないので、それをしっかりと把えることは出来ない。僕の魂は哭いた。ただ、あざやかに僕を横切ってかすめて行ったものの姿におどろかされて。(僕は子供のときから頭のなかを掠めて行った美しい破片のために、じりじりと憧れつづけていたのだ。じりじりと絶えず憧れつづけて絃は張裂けそうだったが)……そして、お前があのように、たった今みたばかりの夢を僕に語るとき、その夢はほんの他愛ないものにすぎなくても、お前のなかには「美しい破片」のために苛まれている微かな身悶えがありはしなかったか。他愛ない夢の無邪気に象徴しているものをお前は僕に告げたが、お前が語ったどんな微かな夢にもお前の顔附があって、お前の過去と未来がしっかり抱きあったまま消えて行ったのではなかったか。
僕はあの家でみた一番綺麗な夢を思い出す。すべての嘆きと憧れが青い粒子となって溶けあっている無限の青みのなかを僕は青い礫のような速さで押流されていた。世界がそのように、いきなり僕にとって変っているということは、睡っている僕に一すじの感動を呼びおこしていたが、醒めぎわが静かに近づいて来るに随って、僕はそこが嘗てお前と一緒に旅行をしたときの山のなかの景色になって来るのに気づいていた。……お前は重苦しい
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