ものから抜け出そうとして、あの旅行を思いついたのだ。金時計を売って旅費にしたときの、お前の身軽そうな姿は大空へ飛立とうとする小鳥に似ていた。今でも僕はお前の魂の羽搏を想像する。泡立つ透明のなかから花びらを纏って生誕する一つの顔。
僕はその頃、夢みがちの少年であった。朝毎に窓をあけると新しい朝が訪れて来るようだった。遠くにきこえる物音や窓の向に見える緑色の揺らぎが、僕を見えない世界へ誘っていた。僕は飛立とうとしていた。書物では知っていたが、まだ経験したことのない放浪や冒険の夢が日毎に僕のまわりにあった。僕は硝子張の木箱の前に坐っていた。僕にとって、ぼんやり僕の顔を映している硝子が、そのあたりにすべての予感が蹲っているようでもあった。だが、こうして部屋に坐っているということが、僕には何か堪らない束縛ではないかとおもえた。僕にはどうしようもない枠が、この世の枠が既にそっと準備されているのではないか。それは中学生の僕が足に穿いている兵隊靴のようなものかもしれなかった。大人たちは平凡な顔つきをして、みな悲しげに枠のなかにいた。書物の頁のなかから流れて来る素晴らしい観念だけが僕を惹きつけた。それは僕の見上げる晴れ渡った青空のなかに流れているようだった。僕は学校の植物園をひとりで散歩していた。柔らかい糸杉の蔭に野うばらの花が咲いていた。五月の日の光は滴り、風は静かだった。蒼穹の弧線の弾力や彼の立っている地面の弾力が直接僕の胸や踵に迫って来るようだった。荘厳な殿堂の幻が見えて、人類の流れは美しくつづいて行く。だが、そういう想像のすぐ向側で、何か凄惨な翳が忽ち僕のなかに拡がって行く。それも書物の頁から流れてくる観念かもしれなかった。傷つけあい、痛めあい、はてしなく不幸な群の連続、暗澹とした予感がどこからともなく僕に紛れ込んで来るのだ。全世界は一瞬毎にその破滅の底へずり降ってゆく。静かに音もなくずり降ってゆく。この不安定なもの狂おしい気分は植物園の空気のなかにも閃めいた。急に湿気を含んだ風が草の葉を靡かすと、樹木の上を雲が走って、陽は翳って行った。すると光を喪った叢の翳にキリストの磔刑の図を見るような気がした。ふと、植物園の低い柵の向に麦畑のうねりや白い路が見えた。と、その黒い垣が忽ち僕を束縛している枠のようにおもえるのだった。
僕は小娘のように何かを待ち望んでいたのかもしれない。そのように待ち望んでいるものを夢みていたのかもしれない。可憐の花の蕾や小鳥たちの模様に取囲まれて、朝毎に美しく揺らぐ透明な空気が何処かから僕を招いていたのだろうか。ふと僕は花の蕾の上に揺らぐ透明なのが刻々に何かもの狂おしく堪えがたくなってゆくような気分に襲われた。すると僕の眼のすぐ裏側には、美しい物語のなかの女の涙が凝と宿ってゆく。「世界はこんなに美しいのに……」とその嘆き声がききとれるようだった。……僕は嘆くような気持で家を出ると、街を通り抜けて、川に添う堤の白い路を歩いて行った。うっとりとしたものは僕の内側にも、僕の歩いて行く川岸にもあった。白い河原砂の向に青い水がひっそりと流れていた。その水の流れに浮かんで、石を運ぶ船がゆるやかに下ってゆく。石の重みのため胸まで水に浸っていながら進んでゆく船が何か人間の悲痛の姿のようにおもえた。僕の頭上を燕はしきりに飛び交わしていた。月見草の咲いている堤の叢に僕は腰を下ろすと、身体を後へ反らして寝転んで行った。すると眩しい太陽の光が顔一ぱいに流れて来た。僕は眼を閉じた。閉じた瞼の暗い底に赤い朧の塊りがもの狂おしく見えた。「世界はこんなに美しいのに、どうして人生は暗いのか」と僕はそっとひとり口吟んでいた。(この静かなふるさとの川岸にも惨劇の日はやって来たのだった。そして最後の審判の絵のように川岸は悶死者の群で埋められたのだが……)
僕はあのとき、あの静かな川岸で睡って行ったなら、どんな夢をみたのだろうか。その頃、僕のなかには幻の青い河が流れていたようだ。それも何かの書物で読んでからふと僕に訪れて来たイメージだったが、青い幻の河の流れは僕が夜部屋に凝と坐っていると、すぐ窓の外の楓の繁みに横わっているのではないかとおもわれた。が、そんなに間近かに感じられるとともに、殆ど無限の距離の彼方にそのイメージは流れていた。まだ、この世に生誕しない子供たちが殆ど天使にまがう姿で青い川岸の花園のなかに蹲っている。だが、子供たちは既にみなそれぞれ愛の宿命を背負っているのか、二人ずつ花蔭に寄り添って優しく羞しげに抱き合っているのだ。無数の花蔭のなかの無数の抱きあったやさしい姿、子供たちは青い光のなかに白く霞んで見えた。ちらりと僕はそのなかに僕もいるのではないかという気がした。
僕の喪失した記憶の疼きといったようなものが、いつも僕の夢見心地のなか
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