と、その縁側では見知らぬ子供が不審げにこちらを見ているにすぎなかった。そうか、今ではあそこに見知らぬ人が住んでいるのか。そうか、しかし、とにかく家は残っていたのだったか。僕は自分に云いきかせて、その場所を立去った。僕は海岸の方へ出る国道や焼跡のバラックの路をじりじりした気分でひとり歩き廻っていた。空気のにおいや、どよめきや、過去と繋りのある無数の類型や比喩が僕のまわりを目まぐるしく追越そうとする。……そして、東京へ戻って来ると、僕は再びあの小さな箱のなかに振り落されているのだった。
 僕はX大学の図書館の書庫のことは書いておきたい。この学校の夜間部の教師の口にありついた僕は餓じい体を鞭打ちながら、いつも小さな箱のなかから、ここへ出掛けて来る。ここでは焼け失せた空間と焼け残った空間が罅割れた観念のように僕の眼に映る。坂の石段を昇りつめたところにある図書館も赤煉瓦の六角塔は崩れ墜ちて、鉄筋の残骸ばかりが見えている。僕は昔、あの赤煉瓦の塔を見上げたとき、その上にある青空が磨きたての鏡のようにおもえたのを憶えているので、どこか僕のなかには磨きたての新鮮な空気がまだありそうな気もする。表の閲覧室の方は壊れたままだが、裏側にある書庫は無事に残っているのだ。僕はあるとき、入庫証をもらうと、はじめてその書庫のなかに這入ることが出来た。重たい鉄の扉を押して、ガラスの破片などの散乱している仄暗い地下室に似た処を横切ると、窓のところに受附の少年がいた。そこから細い階段を昇って行くと、階上はひっそりとして、どの部屋もどの部屋も薄明りのなかに書籍が沈黙しているのだった。僕はいま、受附の少年のほかに、この建物のなかには誰も人間がいないのを感じた。それから、窓の外にある光線はかなり強烈なのに、この書庫に射して来る光は、ものやわらかに書物の影を反映しているようだった。僕はゆっくり部屋から部屋を見て歩いた。「イーリヤス」「ドン・キホーテ」など懐しい本の名前が見えて来る。どの書物もどの書物も、さあ僕の方から読んでくれたまえと、背文字でほほえみかけてくるようだ。僕はへとへとになりながら、時間を忘れ、ものに憑かれたように、あちこち探し歩いた。だが、何を探しているのか、僕には自分でもはっきりわからないようだった。
「これは全世界を失って自己の魂を得た者の問題である」
 借りて来た書物のなかから、この言葉を見出したとき僕は何かはっとした。ジェラル・ド・ネルヴァルのことを誌したその数頁の文章は怕しい追憶か何かのように僕をわくわくさせる。「理性と称する頭脳の狂いない健全さのなかに、我々の諸能力を結合している鎖の薄弱さに就いて、その鎖が、過ぎゆく夢の羽搏きにも破れるほど脆く細々と擦り減ったように見える時がありはしないか。……眠れない夜々、心を痛めて待ちあぐむ日々に突然的な事件の衝動、こういうありふれた悩みの一つでも、人の神経のなかにある調子はずれの鐘を乱打するに充分であろう」と、その書物は悲しげに語っている。が、僕にはあのアドリイヌと呼ぶ少女のことも、青いリボンの端に結んで匍わせていた一匹の大鰕のことも、突然、幻想の統制力が崩れた惨めな瞬間のことも、何か朧気に心おぼえがあるのではないかという気がして来る。だが、僕はあのネルヴァルが書いたという「夢と人生」はまだ読んだことがないのだ。
 ふと僕は図書館の地下室の椅子に腰かけていた昔の自分もおもいだす。学生の頃、あそこは休憩室になっていたが、はじめて僕があの地下室に這入って行ったのは、朝から夢のような雨が煙っている日だった。室内は湿気と情緒に満たされていた。僕が窓際のテーブルに肘をついて椅子に腰かけると、僕の眼の位置の高さに窓の外の地面が見えた。視野は仄暗い光線とすぐ向側にある建物に遮られてひどく狭められていたが、雨に濡れている芝生の緑が何か柔かい調子を僕のなかに誘った。その時、僕は世界がすべて柔かい調子で優しく包まれているようにおもえた。僕の視野が狭くとも僕の経験が乏しく僕の知識が浅くとも、僕を包んでいる世界は優しく僕を受入れてくれそうだった。僕は世界が静かな文章の流れのようにおもえた。あのとき僕はその流れのなかに立停まっていたのではないか。僕はしずかに嗟嘆した。まるでもう一つの生涯を畢えて回想に耽けっているもののようであった。
 だが、学生の僕は、僕の上にかぶさる世界が今にも崩れ墜ちそうになる幻想によく悩まされた。ときどき僕の神経は擦り切れて、今にも張り裂けるかとおもえた。僕は東京駅の食堂に友人と一緒にいた。衰弱した異常なセロファンのような空気が僕の眼の前から、その食堂の円天井まで漲っているのだった。僕の向に友人がいるということも、僕の頭上に円天井があるということも、刻々に耐え難くなり、測り知れないことがらのようになっていた。
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング