のメルヘンなら、今も僕のゴム底靴の踵にくつついてゐる。メルヘン?……だが、今はもつと別の時刻なのだ。もつと美しい、たとへやうもなく優しげなものが今僕のなかに鳴りひびいてゐる。誂へむきに今この路はひつそりとして人通りが杜絶えてゐる。眼の前にある空気はこまかに顫へて、今にも雨になりさうなのだ。僕はじつと何かを怺へてゐる。だが時刻は刻々に堪へ難くなる。……地のはてにある水晶宮がふと僕の眼に見えてくる。その透明な泉に誰か女のひとが、ひつそりと影をうつしてゐる。その姿が僕には、だんだんはつきりわかつてくる。その顔は何ごとかを堪へ、じつと何ごとか祈ってゐるのだ。
僕は感動に張裂けさうになり空を眺める。泉にうつつてゐる女の顔はキラキラとゆらめきだす。たしかに、その誰ともわからぬ女のひとは熱い涙とやさしい笑みをたたへたまま凝と雲のなかにゐるのだ。靄を含んだ柔らかい空気……それは僕の眼の前にある。僕の頬の下にも涙を含んだ顫へる靄が……。ふと、僕はいつのまにか、いつもの見なれた路を歩いてゐる自分をとりかへしてゐる。僕はやはり夜学へ行くのか……。だが、さつき僕を感動させたものはキラキラとまだ何処か遠方でゆ
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