〈饑饉ノ烈シキ熱気ニヨリテワレラノ皮膚ハ炉ノゴトク熱シ〉
といふ言葉を思ひ泛べてゐた。
 休暇になつて、電車に乗る用がなくなると、漸く彼ものびのびした気持だつた。が、今度は硝子一重の狭い部屋に容赦なく差込む暑い光がどうにもならなかつた。新びいどろ学士は蒸殺しになりさうな板の上で昼寝と読書の一夏をすごした。夜あけになると、奇怪な咳が彼の咽喉を襲つた。さうして、漸く爽やかな秋風も訪れて来た頃、銭湯の秤で目方を測つてみると、彼の体重は実に九貫目しかなかつたのである。

 あるとき彼は思ひ屈して、大森駅の方へ出る坂路をとぼとぼと歩いてゐた。ふと、電柱に貼られた「衣類高価買入」といふ紙片が彼の目についた。気をつけてみると、その札は殆どどの電柱にも貼つてあつた。急に彼は行李の底にある紋附の着物を思ひ出した。それは昔彼が結婚式のとき着用した品だつたが、たまたま疎開させておいたので助かつてゐたのだ。次の日、彼はその紋附の着物を風呂敷に包むと、金融通帳を持つて、はじめてその店を訪れた。
 金はつぎつぎに彼を苦しめてゐた。彼は蔵書の大半を焼失してゐたが、残つてゐる本を小刻みに古本屋へ運ぶのであつた。
 
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