会前の混雑に満たされてゐたが、彼がぼんやり片隅に立つてゐると、「飲み給へ」と見識らぬ男がコツプを差向けた。……何だか彼は既に酩酊気味だつた。気がつくと、人々はぞろぞろと廊下の方へ散じてゐた。彼が廊下の方へ出て行くと、左右の廊下からふらふらと同じやうな恰好で現れて来た二人の青年が、すぐ彼の目の前で突然ふらふらと組みつかうとした。間髪を入れず、誰かがその二人を引きわけた。廊下の曲角には血が流されてゐて、粉砕された硝子の破片が足許にあつた。酔ぱらひがまだどこかで喚いてゐた。殺気とも、新奇とも、酩酊ともつかぬ、ここの気分に迷ひながら、どうして、ふらふらと、こんな場所にゐるのか訳がわからなくなるのだつたが、それはその儘、「新びいどろ学士」のなかに出て来る一情景のやうに想はれだした。
冷え冷えと陰気な雨が降続いたり、狂暴な南風の日が多かつた。ある日、DDTの罐を持つた男がやつて来ると、彼の狭い部屋を白い粉だらけにして行つた。それは忽ち彼を噎びさうにさせた。それでなくても彼はよくものにむせたり、烈しく咳込んでゐた。咳はもう久しい間とれなかつた。彼は一度、健康診断をしてもらはうと思つたが、いま病気
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