氷花
原民喜
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「喩」の「口」に代えて「女」、読みは「たの」、第3水準1−15−86、88−上−7]シイ
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三畳足らずの板敷の部屋で、どうかすると息も窒がりさうになるのであつた。雨が降ると、隙間の多い硝子窓からしぶきが吹込むので、却つて落着かず、よく街を出歩いた。「僕をいれてくれる屋根はどこにもない、雨は容赦なく僕の眼にしみるのだ」――以前読んだ書物の言葉が今はそのまま彼の身についてゐるのだつた。有楽町駅のコンクリートの上に寝そべつてゐる女を見かけたことがある。乳飲児を抱へて、筵も何もない処で臆びれもせず虚空な眸を見ひらいてゐた。それは少し前まで普通な暮しをしてゐたことの分る顔だつた。さういふ顔が何といつても一番いけなかつた。朝、目が覚めると、彼の部屋の固い寝床は、そのまま放心状態で寝そべつてゐるコンクリートになつてゐる。はつとして彼は自分にむかつて叫ぶのであつた。「此処で死んではならない、今はまだ死んではならないぞ」だが、彼を支へてゐる二階の薄い一枚の板張は今にも墜落しさうだつたし、突然、木端微塵に飛散るものの幻影があつた……。
家の焼跡に建ててゐるバラツクももう殆ど落成しさうだ――。
広島からそんな便りを受取ると、彼は一度郷里へ行つてみたくなつた。今年の二月、彼は八幡村から広島の焼跡へ掘出しに行つたのだが、あの時の情景が思ひ出された。眼のとどく処には粗末な小屋が二つ三つあるばかりで焼跡の貌ばかりがほしいままに見渡せたが、彼は青い水を湛へてゐる庭の池の底を覗きながら、まだ八月六日の朝の不思議な瞬間のことを思ひ耽つてゐた。だが、長兄はせつせと瓦礫を拾つては外に放りながら、大工たちを指図してゐるのだつた。大工たちは焼残つた庭樹を焚いて、そのまはりで弁当を食べた。すると、すぐ近くに見える山脈に嶮しい翳りが拡がつて、粉雪がチラつきだした。彼が庭に埋めておいた木箱からは、黒い水に汚れた茶碗や皿が出て来た。それは彼が妻と死別れて、広島に戻る時まで旅先の家で使つてゐた品だつた。が、そんなものは差当つて何にもならなかつたので、彼は姉のところへ預けに行つた。
川口町の焼残つた破屋で最近夫と死別れた姉は、彼の顔を見るたびに、「どうするつもりなの、うかうかしてゐる場合ではないよ」と云ふのであつた。この姉は、これから押寄せてくる恐ろしいものに脅えながら、突落された悲境のなかをどうにかかうにかくぐり抜けてゆく気組を見せてゐた。ところが、彼は罹災以来、八幡村で次兄の家に厄介になつてゐて、飢ゑに苛まれ衰弱してゆく体を視つめながら、漠然と何かを待つてゐたのである。
新シイ人間ガ生レツツアル ソレヲ見ルノハ※[#「喩」の「口」に代えて「女」、読みは「たの」、第3水準1−15−86、88−上−7]シイ 早クヤツテキタマヘ と、東京の友は云つて来た。汽車の制限がなくなるのを待つてゐると、間もなく六大都市転入禁止となつた。
新しい人間が見たいといふ熱望は彼にもあつた。彼があの原子爆弾で受けた感動は、人間に対する新しい憐憫と興味といつていい位だつた。急に貪婪の眼が開かれ、彼は廃墟のなかを歩く人間をよく視詰めた。廃墟の入口のべとべとの広場に出来た闇市には頭髪をてらてら光らし派手なマフラを纏つてゐる青年や、安つぽい衣裳の女を見かけるやうになつた。憩へる場所の一つもない死の街を人はぞろぞろ歩いて居り、ガタガタの電車は軋みながら走つた。彼はその電車のなかで、漁師らしい男が不逞な腕組みをしながら、こんなことを唸つてゐるのをきいた。
「ヘツ! 着物を持つて来て煮干とかへてくれといふやうになりやがつたかツ。もう奴等の底は見えて来たわい」
それは獲物の血を啜つてゐる蜘蛛の姿を連想さすのだつた。だが、さういふ蜘蛛の巣は今にいたるところに張りめぐらされてくるかもしれなかつた。
「もうこれからは百姓になるか、闇屋になるかしなくては、どつちみち生きては行けませんぞ」
以前は敏腕な社員だつたが、今は百姓になつてゐる後藤は、皆を前にして熱心に説くのであつた。それは廿日市の長兄のところで、製作所の解散式が行はれた日のことだつた。彼も半年ほどその製作所にゐたので、次兄と一緒にこの席へ加はつた。罹災以来、製作所の者が顔を合はすのは、それが最初の最後であつた。奇蹟的に皆無事に助かつてゐた。ひどい火傷で生死が気づかはれてゐた西田まで今はピンピンしてゐた。だが、これから皆は何を仕始めたらいいのか、かなり迷つてゐるのだつた。
「たとへまあ商店をやるにしたところで、その脇にちよつと汁粉屋などを兼ねて、二段にも
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