三段にもこまめにせつせと立働くことですな」
 後藤がこんなことを面白をかしく喋つてゐると、縁側に自転車の停まる音がして、誰かがのそつと入つて来た。
「バターぢや、雪印が四十五円、どうぢや、要るかなあ」
 その男は勝誇つたやうに皆を見下ろしてゐたが、「まあ、まあ、一寸休んで行きなさい」と後藤に云はれると、漸くそこへ腰を下ろし、それから人を小馬鹿にしたやうな調子で喋りだした。
「ははん、これからいよいよ暮し難うなると仰しやるのか、あたりまへよ。大体、十あるものを十人に分けるといふのなら道理も立つが、三つしかないものを十人に分けろなんて、あんまり馬鹿馬鹿しいわい。何もこの際、弱い奴や乞食どもを養つてやるのが政府の方針でもあるまいて。……ははん、ところでまあ聞いてもくれたまへ。こなひだも荷物を送出すのに儂はいきなり駅長室へ掛合に行つた。あたりには人もゐたから、そろつと二十円ほど駅長の机の上に差出して筆談したわけさ。駅長もよく心得たもので早速それは許可してくれた。ははん、近頃は万事まあこの調子さ。……ところで、まあ聞いてもくれたまへ。たつたこの間まで儂もよく知つてゐるピイピイの小僧子がひよつくり儂に声をかけて云ふことには、この頃はお蔭で大きな商売やつてます、何しろ月五千円からかかりますつてな、笑はしやあがるが、まあまあ人間万事からくり一つさ」
 その赭ら顔のむかつくやうな表情の男を、彼は茫然と傍から眺めてゐた。喋り足りると、その男は勝誇つたやうに自転車に乗つて去つて行つた。――その時から、彼はその男が残して行つた奇怪な調子を忘れることが出来なかつた。以前も二三度見かけたことはある男だつたが、あれは一体何といふ人間なのだらう。「ははん」と自棄くその調子が彼を嘲るやうであつた。
 煙草に餓ゑて、彼は八幡村から廿日市まで一里半の路を吸殻を探して歩いて行つた。田舎路のことで一片の吸殻も見つからなかつた。廿日市の嫂のところで一本の煙草にありついた時には、さきほどまで滅入りきつてゐた気分が急に胸にこみあげて来た。
「何だか僕は死ぬるのではないかと思つてゐた」彼はふと溜息をついた。
「悪いことは云はないから、再婚なさい。主人とも話してゐるのですが、もし病気されたら、誰が今どきみてくれるでせうか」
 長兄もときどき八幡村に立寄つた序には彼にそのことを持ちかけるのだつた。
「結局、それではどうするつもりなのだ」
「近いうち東京へ出たいと思つてゐる」
 彼は兄の追求を避けるやうに、かう口籠るのであつた。「いつまであそこへ迷惑かけてゐるつもりなのですか。もう大概何とかなさつたらいいでせうね」――彼と一緒に次兄の家で一時厄介になつてゐた寡婦の妹からこんな手紙が来た。……
「誠がよくやつてくれるのよ、お母さんが愚痴云ふと躍気になつて、それはそれは何でもかでも引受けたやうな口振りで、一生懸命やつてくれるよ」
 川口町の姉は彼の顔を見ると、息子のことを話しだした。父親と死別れたこの中学二年生の少年は急に物腰も大人じみてゐたが、いつの間にか物資の穴とルートを探り当てて、それを巧みに回転さすのだつた。さうして得た金では屋根を修繕させたり、鱈腹飯を食べたり、闇煙草を吸ふのであつた。彼は殆ど驚嘆に近い気持で、十六歳の甥を眺めた。かうした少年は、しかし、今いたるところの廃墟の上で育つてゐるのかもしれなかつた。
 彼が漫然と上京の計画をしてゐると、モラトリウムの発表があつた。一体どういふことになるのか見とほしもつかないので、廿日市の長兄の許へ行つてみた。「君のやうに政府の打つ手を後から後から拝んで行く馬鹿があるか」と長兄は彼を顧みて云ふ。何のことか彼にはよく分らなかつたが、「ははん」といふ嘲笑が耳許でききとれた。
 大森の知人から「宿が見つかるまでなら置いてやつてもいい」といふ返事をもらふと、彼は必死になつて上京の準備をした。転入禁止も封鎖も大変な障碍物だつた。それをどう乗越えていいのか、てんで成算もなかつたが、唯めくら滅法に現在ゐる処から脱出しようとした。
「荷造なんか、あんた自分でおやんなさい」村の運送屋は冷然と彼の嘆願を拒まうとした。
「荷を預つておいても集団強盗が来るから駄目ですよ。持つて帰つて下さい」駅の運送屋は漸くの思ひで運んで来た荷を突返さうとした。
 広島発東京行の列車なら席があるだらうと思つて、彼がその朝、広島駅のホームで緊張しながら待つてゐると、その列車は急に大竹からの復員列車になつてゐた。どの昇降口の扉も固く鎖ざされ、乗るものを拒まうとしてゐた。彼は夢中で走り廻り、漸く昇降口の一隅に身を滑り込ますことが出来た。滅茶苦茶の汽車だつたが、横浜で省線に乗替へると、彼は窓の外を珍しげに眺めてゐた。焼けてゐるとはいつても、広島の荒廃とはちがつてゐるのだつた。

 東
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