京へ来たその日から彼は何かそはそはしたものに憑かれてゐた。三田の学校を訪れようと思つて省線に乗ると、隙間のない車内はぐいぐいと人の肩が胸を押して来た。大混乱の電車は故障のため品川で降ろされてしまつた。ホームにはどつと人が真黒に溢れてしまつた。へとへとに疲れながら彼は身内に何か奮然としたものを呼びおこされた。次の電車で田町に降りた時には、熱湯からあがつたやうに全身がすーつとしてゐた。それから三田の学校にO先生を訪ねたのだが不在だつたので、彼はすぐまた電車でひきかへした。帰りの電車も物凄い混雑だ。ふと、すぐ側にゐるジヤンパーの男が、滑らかな口調で、乗りものの混乱を罵倒しだした。彼は珍しげに眺めた。その男の顔は敗戦の陽気さを湛へてゐて、人間と人間とが滅茶苦茶に摩擦し合ふ映画のなかの俳優か何かのやうにおもへた。
 翌日、彼は目白の方へO先生の自宅を探して行つた。焼跡と焼けてゐないところが頻りに彼の興味を惹いてゐたが、O先生の宅も無事に残つてゐる一郭にあつた。静かな庭に面した書斎には、ぎつしりと書棚に本が詰まつてゐる。かうした落着いた部屋を眺めるのも実に彼には久振りであつた。
「教師の口ならあるかもしれない。そのかはりサラリーはてんでお話になりませんよ」
 O先生は気の毒げに彼を眺めてゐたが、「広島にゐた方がよかつたかもしれんね」と呟いた。
 それから二三日して、三田の学校へO先生を訪ねて行くと、その時も先生は不在だつた。まだ転入のとれない彼はひどく不安定な気分だつたが、ふと新橋行の切符を買ふと、銀座へ行つてみる気になつた。……来てみるとそこは柳の新緑と人波と飾窓が柔かい陽光のなかに渦巻いてゐる。飾窓の銀皿に盛られた真紅な苺が彼をハツとさせた。どの飾窓からも、彼の昔の記憶にあるものや、今新しく見るものがチラチラしてゐた。彼はふらふらとデパートに入るとスピード籤を引く人の列に加はつてゐた。まるで家出した田舎娘のやうな気持だつた。これはどうしたことなのだらう、いつたい、これからどうなるのだらう、と彼は人混のなかで見失ひさうになる自分を怪しんだ。
 文化学院に知人を訪ねようと思つて、大森駅から省線に乗ると、その朝は珍しく席がゆつくりしてゐた。だが、次の駅でどかどかとプラツカードを抱へた一群が乗込んで来ると、車内は異様な空気に満たされた。「三菱の婿、幣原を倒せ」そんな文字の読みとられ
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