るプラツカードは電車の天井の方へ捧げられ、窓から吹込む風にハタハタと飜つてゐる。背広を着た若い男が小さな紙片を覗き込みながら、インターナシヨナルを歌つてゐる。爽やかな風が絶えず窓から吹込み、電車は快適な速度に乗つてゐた。新しい人間はあのなかにゐるのだらうか……彼も何となしに晴々した気持にされさうであつた。お茶の水駅で電車を降りると、焼けてゐない街が眼の前にあつた。彼はまた浮々とした気分ですぐその方へ吸込まれさうになつた。だが、不意と転入のことが気になりだすと、急に目白のO先生を訪ねようと思つた。彼は駅に引返すと目白行の切符を求めた。
三田の学校の夜間部へ彼が就職できたのは、それから二週間位後のことであつた。ある夕方、そこの運動場で入場式が行はれると、新入生はぞろぞろと電燈の点いてゐる廊下に集まり彼を取囲んだ。声をはりあげて彼は時間割を読んできかせねばならなかつた。
翌日から出勤が始まつた。大森から田町まで、夕方の物凄い電車が彼を揉みくちやにするのだつた。彼は「交通地獄に関するノート」を書きだした。……長らく彼を脅かしてゐた転入のことも就職とともに間もなく許可になつた。が、こんどは食糧危機が暗い青葉の蔭から、それこそ白い牙を剥いて迫つて来るのだつた。
雨に濡れた青葉の坂路は、米はなく、菜つぱばかりで満たされた胃袋のやうに暗澹としてゐた。三田の学校の石段を昇つて行くとき彼の足はふらふらと力なく戦く。教室に入ると、彼は椅子に腰を下ろした儘、なるべく立つことをすまいとする。だが、教科書がないので、いやでも黒板に書いて教へねばならなかつた。チヨークを使つてゐると、彼の肩は疼くやうにだるかつた。
彼は「飢ゑに関するノート」もとつておかうと思つた。だが、飢餓なら、殆ど四六時中彼を苛んでゐるので、それは刻々奇怪な幻想となつてゐた。どこかで死にかかつてゐる老婆の独白が耳にきこえる。どういふ訳で、こんな、こんな、ひだるい目にあはねばならないのかしら……食べものに絡まる老婆の哀唱は連綿として尽きないのだつた。床屋へ行つて、そこの椅子に腰を下ろし、目をとぢた瞬間、ふいと彼が昔飼つてゐた犬の姿が浮かぶ。尻尾を振り振り、ガツガツと残飯に啖ひつく犬が自分自身の姿のやうに痛切であつた。
ふと、彼はその頃読んだセルバンテスの短篇から思ひついて、「新びいどろ学士」といふ小説を書かうと考へ
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