だした。セルバンテスの「びいどろ学士」は自分の全身が硝子でできてゐると思ひ込んでゐるので、他からその体に触られることを何よりも恐れてゐる。そのかはり、彼の体を構成してゐる、その精巧微妙な物質のお蔭で、彼の精神は的確敏捷に働き、誰の質問に対しても驚くべき才智の閃きを示して即答できるのであつた。たとへば、一人の男が他人を一切羨まない方法はどうしたらいいのかと質問すると、
「眠ることだ、眠つてゐる間は、少くとも君は君の羨む相手と同等のはずだからね」と答へる。しかし、この不幸な、びいどろ学士は遂に次のやうな歎声を洩らさねばならなかつた。
「おお、首府よ、お前は無謀な乱暴者の希望は伸すくせに、臆病な有徳の士の希望を断つのか! 無恥な賭博者どもをゆたかに養ふのに、恥を知る真面目な人々を餓死させて顧みないのか!」
彼はこの歎声がひどく気に入つたので、かういふ人間を現在の東京へ連れて来たら、どういふことになるのだらうかと想像しだした。その新びいどろ学士は、原子爆弾の衝撃から生れたことにしてもいい。全身硝子でできてゐる男を想像しながら、彼が電車の中で人間攻めに遭つてゐると、扉のところの硝子が滅茶苦茶に壊れてゐるのが目につく。忽ち新びいどろ学士の興奮状態が描かれるのであつた。
夜学の生徒たちも、腹が空いてゐるとみえて、少しでも早く授業が了るのを喜んだ。学校が退けて、彼が電車で帰る時刻は、どうかすると、買出戻りの群とぶつつかる。その物凄い群の大半は大井町駅で吐出されるが、あとの残りは大森駅の階段を陰々と昇つて行く。真黒な大きな袋の群は改札口で揉み合ひながら、往来へあふれ、石段の路へぞろぞろと続いて行く。「かういふ光景をどう思ふか」と、あるとき彼は新びいどろ学士を顧みて質問してみたが、相手は何とも答へてくれないのであつた。……ある時も大森駅のホームで、等身大の袋を担はうとして、ぺたんと腰をコンクリートの上に据ゑながら、身を反り返してゐる女を見かけた。彼はその女が立上れるかどうか、はらはらして眺めてゐたが、うまく起上つたので、「あれは何といふ物凄い力なのだらう」と、彼は彼の新びいどろ学士に話しかけてみた。が、やはり何とも答へてくれないのであつた。
ある日、彼は文化学院に知人を訪ねて行つたが、恰度外出中だつたので、暫く待つてゐようと思つて、あたりをぶらついてゐると、講堂のところに何か催し
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