てゐた。倉敷駅で下車すると、彼ははじめて、静かな街にやつて来たやうな気持で、あたりの空気を貪るやうに吸つた。妹の家はすぐ駅の近くにあつた。彼はその家の座敷に腰を下ろすと、久振りに畳の上に坐れる自分を懐しくおもつた。松の樹や苔の生えた石の見える、何でもない、ささやかな庭も彼の眼には珍しかつたが、長らく見なかつたうちに、姪たちはすくすくと伸びてゐるのだつた。まだ国民学校の三年だといふのに、木綿絣のずぼんを穿いてゐる背の高い姪は女学生のやうに可憐だつた。
「諸人 こぞりて 讃へまつれ 久しく待ちにし……」と、その姪は幼稚園へ行つてゐる妹と一緒に縁側で歌つた。
「誰にそんな歌教へてもらつた」と彼はたづねてみた。
「お母さんよ、この、ひさあしいくう……といふところがとてもいいわね」
 翌日、彼が大原コレクシヨンを見て、家に戻つて来ると、小さな姪が配給で貰つた五つの飴玉のその一つを差出して、
「をぢさん、あげませう」と云ふ。
「ありがたう、をぢさんはいいから、あなた食べなさい」
 さう云ふと、この小さな児は円い眼を大きく見ひらいて何だか不満さうな顔だつた。
「配給を分けてあげたい折角の心づくしだから、もらつておきなさい」と妹は側から彼に口を添へた。
 ……彼はその翌日、また汽車に乗つてゐた。夕刻広島へ着く頃になると、雨がポチポチ降りだした。駅の広場からすぐバラツクの雑沓がつづいてゐた。彼は橋を渡り、両側にぎつしり立並ぶ小さな新しい平屋建のごたごたした店を見すごしながら路を急いだ。その次の橋を渡ると、そこからはバラツクも疎らで、まだあまり街の形をなしてゐなかつた。道路からひどく引込んだ空地に、小さな家が見えて来た。
 彼はその家に近寄つて、表札を確かめると、すぐ玄関の戸を開けようとした。だが、戸は鎖してゐて、内には人がゐるのかゐないのか、声をかけてみても反応がなかつた。まだ、廿日市から引越してはゐなかつたのかしら、それにしても今日はもう大晦日だといふのに、どうしたことかしら……と、彼は家のまはりの焼跡の畑を見ながら、ぐるりと縁側の方へ廻つてみた。すると、そこには雑然と荷物が取りちらかされてゐて、その間に立働いてゐる甥たちの姿が見えた。漸くその日、荷物を運んで来たばかりのところだつた。
 翌朝、彼は原子爆弾に逢ふ前訪ねて以来、まだその後一度も行つたことのない妻の墓を訪れようと思つて
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