書物と別れるのは流石につらかつた。だが、今はただ生きて行けさへすればいいのだ、と彼は自分を説得しようとした。だが、朝目が覚めるたびに、何ともいへぬ絶望が喰ひついてゐた。「ははん、『新びいどろ学士』か、嗤はせるない。もうお前さんの底は見えて来たわい」と、まつ黒のぬたぬた坊主の嘲笑がきこえた。

 夕刻五時半からの勤めなのに、彼は三時頃から部屋を出て、よくとぼとぼと歩き廻つた。晩秋の日が沈んでゆく一刻一刻の変化が涙をさそふばかりに心に迫ることがあつた。夕ぐれの教室の窓から、下に見える枯木や、天の一方に吹寄せられてゐる棚雲に三日月が懸つてゐて、靄のなかに人懐げに灯が蠢いてゐる、さうした、何でもない眺めがふと彼を慰めた。心を潤ほすもの、心を潤ほすもの、彼はしきりに今それを求めてゐた。ある日、思ひついて、上野の博物館へ行つてみた。だが博物館は休みだつたので、広小路の方へぶらぶら歩いて行くと、石段のところに、赤ん坊を抱へた女がごろんと横臥してゐるのだつた。

 それはもう霜を含んだ空気がすぐ枕頭の窓硝子に迫つてゐたからであらうか、朝の固い寝床で、彼は何か心をかきむしられる郷愁につき落されてゐた。人の世を離れたところにある、高原の澄みきつた空や、その空に見える雪の峰が頻りと想像されるのだつた。すると、昔みたセガンテイニの絵がふと思ひ出された。あの絵ならたしか倉敷に行けば見られるはずだつた。ふと、彼は倉敷の妹のことも思ひ浮べると、無性にそこへ行つてみたくなつた。そこの一家だけが、彼の身内では運よく罹災を免がれてゐるのだつた。
 広島からの便りでは、焼跡に建てたバラツクは、まだ建具が整はず、そこで棲めるやうになるのは年末頃だらう、と云つて来た。彼もその頃、旅に出掛けたいと思ひだした。旅費にあてるために、大島の袷をとり出した。かうして年末の旅を目論んでゐると、石炭不足のため列車八割削減といふ記事が新聞に出た。その新聞もタブロイド版に縮小されてゐた。また行手を塞がうとする障碍物が現れて来たのだが、石炭が足りなくて汽車を減らすといふことは、何か人を慄然とさすのだつた。だが、彼はどうしても旅に出たいと思つた。切符を手に入れるため夜明前から交通公社の前に立つた。汽車に乗るためには六時間ホームで待つてゐなければならなかつた。

 ……混濁した空気の夜が明けると、窓の外には清冽な水や青い山脈が見え
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