先日の水害で交通は遮断されてゐたが、先生に連れられて三日がかりで此処まで戻つて来たのである。膝から踵の辺まで、蚤にやられた傷跡が無数にあつたが、割りと元気さうな顔つきであつた。明日彼を八幡村に連れて行くことにして、私はその晩長兄の家に泊めてもらつた。が、どういふものか睡苦しい夜であつた。焼跡のこまごました光景や、茫然とした人々の姿が睡れない頭に甦つて来る。八丁堀から駅までバスに乗つた時、ふとバスの窓に吹込んで来る風に、妙な臭ひがあつたのを私は思ひ出した。あれは死臭にちがひなかつた。あけがたから雨の音がしてゐた。翌日、私は甥を連れて雨の中を八幡村へ帰つて行つた。私についてとぼとぼ歩いて行く甥は跣足であつた。

 嫂は毎日絶え間なく、亡くした息子のことを嘆いた。びしよびしよの狭い台所で、何かしながら呟いてゐることはそのことであつた。もう少し早く疎開してゐたら荷物だつて焼くのではなかつたのに、と殆ど口癖になつてゐた。黙つてきいてゐる次兄は時々思ひあまつて呶鳴ることがある。妹の息子は飢ゑに戦きながら、蝗など獲つて喰つた。次兄の息子も二人、学童疎開に行つてゐたが、汽車が不通のためまだ戻つて来なか
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