て来た私の姿を見ると、
「さつきから『君が代』がしてゐるのだが、どうしたのかしら」と不思議さうに訊ねるのであつた。
私ははつとして、母屋の方のラジオの側へつかつかと近づいて行つた。放送の声は明確にはききとれなかつたが、休戦といふ言葉はもう疑へなかつた。私はじつとしてゐられない衝動のまま、再び外へ出て、病院の方へ出掛けた。病院の玄関先には次兄がまだ呆然と待たされてゐた。私はその姿を見ると、
「惜しかつたね、戦争は終つたのに……」と声をかけた。もう少し早く戦争が終つてくれたら――この言葉は、その後みんなで繰返された。彼は末の息子を喪つていたし、ここへ疎開するつもりで準備してゐた荷物もすつかり焼かれてゐたのだつた。
私は夕方、青田の中の径を横切つて、八幡川の堤の方へ降りて行つた。浅い流れの小川であつたが、水は澄んでゐて、岩の上には黒とんぼが翅を休めてゐた。私はシヤツの儘水に浸ると、大きな息をついた。頭をめぐらせば、低い山脈が静かに黄昏の色を吸集してゐるし、遠くの山の頂は日の光に射られてキラキラと輝いてゐる。これはまるで嘘のやうな景色であつた。もう空襲のおそれもなかつたし、今こそ大空は深
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