せつけられたのだが、だが、今、川の水は静かに澄んで流れてゐるのだ。そして、欄杆の吹飛ばされた橋の上を、生きのびた人々が今ぞろぞろと歩いてゐる。饒津公園を過ぎて、東練兵場の焼野が見え、小高いところに東照宮の石の階段が、何かぞつとする悪夢の断片のやうに閃いて見えた。つぎつぎに死んでゆく夥しい負傷者の中にまじつて、私はあの境内で野宿したのだつた。あの、まつ黒の記憶は向に見える石段にまだまざまざと刻みつけられてあるやうだ。
 広島駅で下車すると、私は宇品行のバスの行列に加はつてゐた。宇品から汽船で尾道へ出れば、尾道から汽車で本郷に行けるのだが、汽船があるものかどうかも宇品まで行つて確かめてみなければ判らない。このバスは二時間おきに出るのに、これに乗らうとする人は数丁も続いてゐた。暑い日が頭上に照り、日蔭のない広場に人の列は動かなかつた。今から宇品まで行つて来たのでは、帰りの汽車に間に合はなくなる。そこで私は断念して、行列を離れた。
 家の跡を見て来ようと思つて、私は猿猴橋を渡り、幟町の方へまつすぐに路を進んだ。左右にある廃墟が、何だかまだあの時の逃げのびて行く気持を呼起すのだつた。京橋にかかる
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