かあかと西日が溢《あふ》れていた。外郭だけ残っている駅の建物は黒く空洞で、今にも崩《くず》れそうな印象を与えるのだが、針金を張巡《はりめぐ》らし、「危険につき入るべからず」と貼紙《はりがみ》が掲げてある。切符売場の、テント張りの屋根は石塊《いしくれ》で留めてある。あちこちにボロボロの服装をした男女が蹲《うずくま》っていたが、どの人間のまわりにも蠅《はえ》がうるさく附纏《つきまと》っていた。蠅は先日の豪雨でかなり減少した筈《はず》だが、まだまだ猛威を振っているのであった。が、地べたに両足を投出して、黒いものをパクついている男達はもうすべてのことがらに無頓着《むとんじゃく》になっているらしく、「昨日は五里歩いた」「今夜はどこで野宿するやら」と他人事のように話合っていた。私の眼の前にきょとんとした顔つきの老婆が近づいて来て、
「汽車はまだ出ませんか、切符はどこで切るのですか」と剽軽《ひょうきん》な調子で訊《たず》ねる。私が教えてやる前に、老婆は「あ、そうですか」と礼を云って立去ってしまった。これも調子が狂っているにちがいない。下駄ばきの足をひどく腫《は》らした老人が、連れの老人に対《むか》って何か力なく話しかけていた。
私はその日、帰りの汽車の中でふと、呉線は明日から試運転をするということを耳にしたので、その翌々日、呉線経由で本郷へ行くつもりで再び廿日市の方へ出掛けた。が、汽車の時間をとりはずしていたので、電車で己斐へ出た。ここまで来ると、一そ宇品へ出ようと思ったが、ここからさき、電車は鉄橋が墜《お》ちているので、渡舟によって連絡していて、その渡しに乗るにはものの一時間は暇どるということをきいた。そこで私はまた広島駅に行くことにして、己斐駅のベンチに腰を下ろした。
その狭い場所は種々雑多の人で雑沓《ざっとう》していた。今朝|尾道《おのみち》から汽船でやって来たという人もいたし、柳井津で船を下ろされ徒歩でここまで来たという人もいた。人の言うことはまちまちで分らない、結局行ってみなければどこがどうなっているのやら分らない、と云いながら人々はお互に行先のことを訊ね合っているのであった。そのなかに大きな荷を抱《かか》えた復員兵が五六人いたが、ギロリとした眼つきの男が袋をひらいて、靴下に入れた白米を側にいるおかみさんに無理矢理に手渡した。
「気の毒だからな、これから遺骨を迎えに行くときいては見捨ててはおけない」と彼は独言《ひとりごと》を云った。すると、
「私にも米を売ってくれませんか」という男が現れた。ギロリとした眼つきの男は、
「とんでもない、俺《おれ》達は朝鮮から帰って来て、まだ東京まで行くのだぜ、道々十里も二十里も歩かねばならないのだ」と云いながら、毛布を取出して、「これでも売るかな」と呟《つぶや》くのであった。
広島駅に来てみると、呉線開通は虚報であることが判《わか》った。私は茫然《ぼうぜん》としたが、ふと舟入川口町の姉の家を見舞おうと思いついた。八丁堀から土橋まで単線の電車があった。土橋から江波の方へ私は焼跡をたどった。焼け残りの電車が一台放置してあるほかは、なかなか家らしいものは見当らなかった。漸《ようや》く畑が見え、向うに焼けのこりの一郭が見えて来た。火はすぐ畑の側まで襲って来ていたものらしく、際《きわ》どい処で、姉の家は助かっている。が、塀《へい》は歪《ゆが》み、屋根は裂け、表玄関は散乱していた。私は裏口から廻って、縁側のところへ出た。すると、蚊帳《かや》の中に、姉と甥《おい》と妹とその三人が枕《まくら》を並べて病臥《びょうが》しているのであった。手助に行ってた妹もここで変調をきたし、二三日前から寝込んでいるのだった。姉は私の来たことを知ると、
「どんな顔をしてるのか、こちらへ来て見せて頂だい、あんたも病気だったそうだが」と蚊帳の中から声をかけた。
話はあの時のことになった。あの時、姉たちは運よく怪我《けが》もなかったが、甥は一寸《ちょっと》負傷したので、手当を受けに江波まで出掛けた。ところが、それが却《かえ》っていけなかったのだ。道々、もの凄《すご》い火傷者を見るにつけ、甥はすっかり気分が悪くなってしまい、それ以来元気がなくなったのである。あの夜、火の手はすぐ近くまで襲って来るので、病気の義兄は動かせなかったが、姉たちは壕《ごう》の中で戦《おのの》きつづけた。それからまた、先日の颱風《たいふう》もここでは大変だった。壊れている屋根が今にも吹飛ばされそうで、水は漏り、風は仮借なく隙間《すきま》から飛込んで来、生きた気持はしなかったという。今も見上げると、天井の墜ちて露出している屋根裏に大きな隙間があるのであった。まだ此処《ここ》では水道も出ず、電燈も点《つ》かず、夜も昼も物騒《ぶっそう》でならないという。
私は義兄に見舞を云おうと思って隣室へ行くと、壁の剥《お》ち、柱の歪んだ部屋の片隅《かたすみ》に小さな蚊帳が吊《つ》られて、そこに彼は寝ていた。見ると熱があるのか、赤くむくんだ顔を茫然とさせ、私が声をかけても、ただ「つらい、つらい」と義兄は喘《あえ》いでいるのであった。
私は姉の家で二三時間休むと、広島駅に引返し、夕方廿日市へ戻ると、長兄の家に立寄った。思いがけなくも、妹の息子の史朗がここへ来ているのであった。彼が疎開していた処も、先日の水害で交通は遮断《しゃだん》されていたが、先生に連れられて三日がかりで此処まで戻って来たのである。膝《ひざ》から踵《かかと》の辺まで、蚤《のみ》にやられた傷跡が無数にあったが、割と元気そうな顔つきであった。明日彼を八幡村に連れて行くことにして、私はその晩長兄の家に泊めてもらった。が、どういうものか睡苦《ねぐる》しい夜であった。焼跡のこまごました光景や、茫然とした人々の姿が睡れない頭に甦《よみがえ》って来る。八丁堀から駅までバスに乗った時、ふとバスの窓に吹込んで来る風に、妙な臭《にお》いがあったのを私は思い出した。あれは死臭にちがいなかった。あけがたから雨の音がしていた。翌日、私は甥を連れて雨の中を八幡村へ帰って行った。私についてとぼとぼ歩いて行く甥は跣《はだし》であった。
嫂は毎日絶え間なく、亡《な》くした息子《むすこ》のことを嘆いた。びしょびしょの狭い台所で、何かしながら呟いていることはそのことであった。もう少し早く疎開していたら荷物だって焼くのではなかったのに、と殆ど口癖になっていた。黙ってきいている次兄は時々思いあまって怒鳴ることがある。妹の息子は飢えに戦きながら、蝗《いなご》など獲《と》って喰《く》った。次兄の息子も二人、学童疎開に行っていたが、汽車が不通のためまだ戻って来なかった。長い悪い天気が漸く恢復《かいふく》すると、秋晴の日が訪れた。稲の穂が揺れ、村祭の太鼓の音が響いた。堤の路《みち》を村の人達は夢中で輿《こし》を担《かつ》ぎ廻ったが、空腹の私達は茫然と見送るのであった。ある朝、舟入川口町の義兄が死んだと通知があった。
私と次兄は顔を見あわせ、葬式へ出掛けてゆく支度《したく》をした。電車駅までの一里あまりの路を川に添って二人はすたすた歩いて行った。とうとう亡くなったか、と、やはり感慨に打たれないではいられなかった。
私がこの春帰郷して義兄の事務所を訪れた時のことがまず目さきに浮んだ。彼は古びたオーバーを着込んで、「寒い、寒い」と顫《ふる》えながら、生木の燻《くすぶ》る火鉢《ひばち》に獅噛《しが》みついていた。言葉も態度もひどく弱々しくなっていて、滅《めっ》きり老い込んでいた。それから間もなく寝つくようになったのだ。医師の診断では肺を犯されているということであったが、彼の以前を知っている人にはとても信じられないことではあった。ある日、私が見舞に行くと、急に白髪の増《ふ》えた頭を持あげ、いろんなことを喋《しゃべ》った。彼はもうこの戦争が惨敗に近づいていることを予想し、国民は軍部に欺かれていたのだと微《かす》かに悲憤の声を洩《も》らすのであった。そんな言葉をこの人の口からきこうとは思いがけぬことであった。日華事変の始った頃、この人は酔っぱらって、ひどく私に絡《から》んで来たことがある。長い間陸軍技師をしていた彼には、私のようなものはいつも気に喰わぬ存在と思えたのであろう。私はこの人の半生を、さまざまのことを憶《おぼ》えている。この人のことについて書けば限りがないのであった。
私達は己斐《こい》に出ると、市電に乗替えた。市電は天満町まで通じていて、そこから仮橋を渡って向岸へ徒歩で連絡するのであった。この仮橋もやっと昨日あたりから通れるようになったものと見えて、三尺幅の一人しか歩けない材木の上を人はおそるおそる歩いて行くのであった。(その後も鉄橋はなかなか復旧せず、徒歩連絡のこの地域には闇市《やみいち》が栄えるようになったのである。)私達が姉の家に着いたのは昼まえであった。
天井の墜《お》ち、壁の裂けている客間に親戚《しんせき》の者が四五人集っていた。姉は皆の顔を見ると、「あれも子供達に食べさせたいばっかしに、自分は弁当を持って行かず、雑炊食堂を歩いて昼餉《ひるげ》をすませていたのです」と泣いた。義兄は次の間に白布で被《おお》われていた。その死顔は火鉢の中に残っている白い炭を聯想《れんそう》さすのであった。
遅くなると電車も無くなるので、火葬は明るいうちに済まさねばならなかった。近所の人が死骸《しがい》を運び、準備を整えた。やがて皆は姉の家を出て、そこから四五町さきの畑の方へ歩いて行った。畑のはずれにある空地《あきち》に義兄は棺もなくシイツにくるまれたまま運ばれていた。ここは原子爆弾以来、多くの屍体《したい》が焼かれる場所で、焚《たき》つけは家屋の壊《こわ》れた破片が積重ねてあった。皆が義兄を中心に円陣を作ると、国民服の僧が読経《どきょう》をあげ、藁《わら》に火が点《つ》けられた。すると十歳になる義兄の息子がこの時わーッと泣きだした。火はしめやかに材木に燃え移って行った。雨もよいの空はもう刻々と薄暗くなっていた。私達はそこで別れを告げると、帰りを急いだ。
私と次兄とは川の堤に出て、天満町の仮橋の方へ路を急いだ。足許《あしもと》の川はすっかり暗くなっていたし、片方に展《ひろ》がっている焼跡には灯一つも見えなかった。暗い小寒い路が長かった。どこからともなしに死臭の漾《ただよ》って来るのが感じられた。このあたり家の下敷になった儘とり片づけてない屍体がまだ無数にあり、蛆《うじ》の発生地となっているということを聞いたのはもう大分以前のことであったが、真黒な焼跡は今も陰々と人を脅かすようであった。ふと、私はかすかに赤ん坊の泣声をきいた。耳の迷いでもなく、だんだんその声は歩いて行くに随《したが》ってはっきりして来た。勢のいい、悲しげな、しかし、これは何という初々《ういうい》しい声であろう。このあたりにもう人間は生活を営み、赤ん坊さえ泣いているのであろうか。何ともいいしれぬ感情が私の腸を抉《えぐ》るのであった。
槇《まき》氏は近頃|上海《シャンハイ》から復員して帰って来たのですが、帰ってみると、家も妻子も無くなっていました。で、廿日市町の妹のところへ身を寄せ、時々、広島へ出掛けて行くのでした。あの当時から数えてもう四カ月も経《た》っている今日、今迄|行方《ゆくえ》不明の人が現れないとすれば、もう死んだと諦《あきら》めるよりほかはありません。槇氏にしてみても、細君の郷里をはじめ心あたりを廻ってはみましたが、何処《どこ》でも悔みを云われるだけでした。流川《ながれかわ》の家の焼跡へも二度ばかり行ってみました。罹災者《りさいしゃ》の体験談もあちこちで聞かされました。
実際、広島では今でも何処かで誰かが絶えず八月六日の出来事を繰返し繰返し喋《しゃべ》っているのでした。行方不明の妻を探《さが》すために数百人の女の死体を抱き起して首実検してみたところ、どの女も一人として腕時計をしていなかったという話や、流川放送局の前に伏さって死んでいた婦人は赤ん坊に火のつくのを防
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