い風雨となった。稲田の上を飛散る風の唸《うな》りが、電燈の点《つ》かない二階にいてはっきりと聞える。家が吹飛ばされるかもしれないというので、階下にいる次兄達や妹は母屋の方へ避難して行った。私はひとり二階に寝て、風の音をうとうとと聞いた。家が崩れる迄《まで》には、雨戸が飛び、瓦《かわら》が散るだろう、みんなあの異常な体験のため神経過敏になっているようであった。時たま風がぴったり歇《や》むと、蛙《かえる》の啼声が耳についた。それからまた思いきり、一もみ風は襲撃して来る。私も万一の時のことを寝たまま考えてみた。持って逃げるものといったら、すぐ側にある鞄《かばん》ぐらいであった。階下の便所に行く度に空を眺めると、真暗な空はなかなか白みそうにない。パリパリと何か裂ける音がした。天井の方からザラザラの砂が墜ちて来た。
 翌朝、風はぴったり歇んだが、私の下痢は容易にとまらなかった。腰の方の力が抜け、足もとはよろよろとした。建物疎開に行って遭難したのに、奇蹟《きせき》的に命拾いをした中学生の甥は、その後毛髪がすっかり抜け落ち次第に元気を失っていた。そして、四肢《しし》には小さな斑点《はんてん》が出来だした。私も体を調べてみると、極く僅《わず》かだが、斑点があった。念のため、とにかく一度|診《み》て貰うため病院を訪れると、庭さきまで患者が溢《あふ》れていた。尾道《おのみち》から広島へ引上げ、大手町で遭難したという婦人がいた。髪の毛は抜けていなかったが、今朝から血の塊《かたまり》が出るという。妊《みごも》っているらしく、懶《だる》そうな顔に、底知れぬ不安と、死の近づいている兆《きざし》を湛《たた》えているのであった。

 舟入川口町にある姉の一家は助かっているという報《しら》せが、廿日市の兄から伝わっていた。義兄はこの春から病臥中《びょうがちゅう》だし、とても救われまいと皆想像していたのだが、家は崩れてもそこは火災を免れたのだそうだ。息子が赤痢でとても今苦しんでいるから、と妹に応援を求めて来た。妹もあまり元気ではなかったが、とにかく見舞に行くことにして出掛けた。そして、翌日広島から帰って来た妹は、電車の中で意外にも西田と出逢《であ》った経緯《いきさつ》を私に語った。
 西田は二十年来、店に雇われている男だが、あの朝はまだ出勤していなかったので、途中で光線にやられたとすれば、とても駄目だろうと想われていた。妹は電車の中で、顔のくちゃくちゃに腫《は》れ上った黒焦《くろこげ》の男を見た。乗客の視線もみんなその方へ注がれていたが、その男は割と平気で車掌に何か訊ねていた。声がどうも西田によく似ていると思って、近寄って行くと、相手も妹の姿を認めて大声で呼びかけた。その日収容所から始めて出て来たところだということであった。……私が西田を見たのは、それから一カ月あまり後のことで、その時はもう顔の火傷も乾《かわ》いていた。自転車もろとも跳《は》ね飛ばされ、収容所に担《かつ》ぎ込まれてからも、西田はひどい辛酸を嘗《な》めた。周囲の負傷者は殆ど死んで行くし、西田の耳には蛆《うじ》が湧《わ》いた。「耳の穴の方へ蛆が這入ろうとするので、やりきれませんでした」と彼はくすぐったそうに首を傾けて語った。

 九月に入ると、雨ばかり降りつづいた。頭髪が脱け元気を失っていた甥がふと変調をきたした。鼻血が抜け、咽喉《のど》からも血の塊をごくごく吐いた。今夜が危なかろうというので、廿日市の兄たちも枕許《まくらもと》に集った。つるつる坊主の蒼白《そうはく》の顔に、小さな縞《しま》の絹の着物を着せられて、ぐったり横《よこた》わっている姿は文楽か何かの陰惨な人形のようであった。鼻孔には棉《わた》の栓《せん》が血に滲《にじ》んでおり、洗面器は吐きだすもので真赤に染っていた。「がんばれよ」と、次兄は力の籠《こも》った低い声で励ました。彼は自分の火傷のまだ癒《い》えていないのも忘れて、夢中で看護するのであった。不安な一夜が明けると、甥はそのまま奇蹟的に持ちこたえて行った。
 甥と一緒に逃げて助かっていた級友の親から、その友達は死亡したという通知が来た。兄が廿日市で見かけたという保険会社の元気な老人も、その後|歯齦《はぐき》から出血しだし間もなく死んでしまった。その老人が遭難した場所と私のいた地点とは二町と離れてはいなかった。
 しぶとかった私の下痢は漸く緩和されていたが、体の衰弱してゆくことはどうにもならなかった。頭髪も目に見えて薄くなった。すぐ近くに見える低い山がすっかり白い靄《もや》につつまれていて、稲田はざわざわと揺れた。
 私は昏々《こんこん》と睡《ねむ》りながら、とりとめもない夢をみていた。夜の燈が雨に濡《ぬ》れた田の面《も》へ洩《も》れているのを見ると頻りに妻の臨終を憶い出すのであった。妻の一周忌も近づいていたが、どうかすると、まだ私はあの棲《す》み慣れた千葉の借家で、彼女と一緒に雨に鎖《と》じこめられて暮しているような気持がするのである。灰燼《かいじん》に帰した広島の家のありさまは、私には殆ど想い出すことがなかった。が、夜明の夢ではよく崩壊直後の家屋が現れた。そこには散乱しながらも、いろんな貴重品があった。書物も紙も机も灰になってしまったのだが、私は内心の昂揚《こうよう》を感じた。何か書いて力一杯ぶつかってみたかった。
 ある朝、雨があがると、一点の雲もない青空が低い山の上に展《ひろ》がっていたが、長雨に悩まされ通したものの眼には、その青空はまるで虚偽のように思われた。はたして、快晴は一日しか保たず、翌日からまた陰惨な雨雲が去来した。亡妻の郷里から義兄の死亡通知が速達で十日目に届いた。彼は汽車で広島へ通勤していたのだが、あの時は微傷だに受けず、その後も元気で活躍しているという通知があった矢さき、この死亡通知は、私を茫然《ぼうぜん》とさせた。
 何か広島にはまだ有害な物質があるらしく、田舎から元気で出掛けて行った人も帰りにはフラフラになって戻って来るということであった。舟入川口町の姉は、夫と息子の両方の看病にほとほと疲れ、彼女も寝込んでしまったので、再びこちらの妹に応援を求めて来た。その妹が広島へ出掛けた翌日のことであった。ラジオは昼間から颱風《たいふう》を警告していたが、夕暮とともに風が募って来た。風はひどい雨を伴い真暗な夜の怒号と化した。私が二階でうとうと睡っていると、下の方ではけたたましく雨戸をあける音がして、田の方に人声が頻りであった。ザザザと水の軋《きし》るような音がする。堤が崩れたのである。そのうちに次兄達は母屋の方へ避難するため、私を呼び起した。まだ足腰の立たない甥を夜具のまま抱《かか》えて、暗い廊下を伝って、母屋の方へ運んで行った。そこにはみんな起きていて不安な面持であった。その川の堤が崩れるなど、絶えて久しくなかったことらしい。
「戦争に負けると、こんなことになるのでしょうか」と農家の主婦は嘆息した。風は母屋の表戸を烈《はげ》しく揺すぶった。太い突かい棒がそこに支《ささ》えられた。
 翌朝、嵐《あらし》はけろりと去っていた。その颱風の去った方向に稲の穂は悉《ことごと》く靡《なび》き、山の端には赤く濁った雲が漾《ただよ》っていた。――鉄道が不通になったとか、広島の橋梁《きょうりょう》が殆ど流されたとかいうことをきいたのは、それから二三日後のことであった。

 私は妻の一周忌も近づいていたので、本郷町の方へ行きたいと思った。広島の寺は焼けてしまったが、妻の郷里には、彼女を最後まで看病《みと》ってくれた母がいるのであった。が、鉄道は不通になったというし、その被害の程度も不明であった。とにかく事情をもっと確かめるために廿日市駅へ行ってみた。駅の壁には共同新聞が貼《は》り出され、それに被害情況が書いてあった。列車は今のところ、大竹・安芸中野《あきなかの》間を折返し運転しているらしく、全部の開通見込は不明だが、八本松・安芸中野間の開通見込が十月十日となっているので、これだけでも半月は汽車が通じないことになる。その新聞には県下の水害の数字も掲載してあったが、半月も列車が動かないなどということは破天荒のことであった。
 広島までの切符が買えたので、ふと私は広島駅へ行ってみることにした。あの遭難以来、久し振りに訪れるところであった。五日市まではなにごともないが、汽車が己斐《こい》駅に入る頃から、窓の外にもう戦禍の跡が少しずつ展望される。山の傾斜に松の木がゴロゴロと薙倒《なぎたお》されているのも、あの時の震駭《しんがい》を物語っているようだ。屋根や垣がさっと転覆した勢をその儘《まま》とどめ、黒々とつづいているし、コンクリートの空洞《くうどう》や赤錆《あかさび》の鉄筋がところどころ入乱れている。横川駅はわずかに乗り降りのホームを残しているだけであった。そして、汽車は更に激しい壊滅区域に這入《はい》って行った。はじめてここを通過する旅客はただただ驚きの目を瞠《みは》るのであったが、私にとってはあの日の余燼《よじん》がまだすぐそこに感じられるのであった。汽車は鉄橋にかかり、常盤橋《ときわばし》が見えて来た。焼爛《やけただ》れた岸をめぐって、黒焦の巨木は天を引掻《ひっか》こうとしているし、涯《は》てしもない燃えがらの塊《かたまり》は蜿蜒《えんえん》と起伏している。私はあの日、ここの河原《かわら》で、言語に絶する人間の苦悩を見せつけられたのだが、だが、今、川の水は静かに澄んで流れているのだ。そして、欄干の吹飛ばされた橋の上を、生きのびた人々が今ぞろぞろと歩いている。饒津《にぎつ》公園を過ぎて、東練兵場の焼野が見え、小高いところに東照宮の石の階段が、何かぞっとする悪夢の断片のように閃《ひらめ》いて見えた。つぎつぎに死んでゆく夥《おびただ》しい負傷者の中にまじって、私はあの境内で野宿したのだった。あの、まっ黒の記憶は向うに見える石段にまざまざと刻みつけられてあるようだ。
 広島駅で下車すると、私は宇品《うじな》行のバスの行列に加わっていた。宇品から汽船で尾道へ出れば、尾道から汽車で本郷に行けるのだが、汽船があるものかどうかも宇品まで行って確かめてみなければ判らない。このバスは二時間おきに出るのに、これに乗ろうとする人は数町も続いていた。暑い日が頭上に照り、日陰のない広場に人の列は動かなかった。今から宇品まで行って来たのでは、帰りの汽車に間に合わなくなる。そこで私は断念して、行列を離れた。
 家の跡を見て来ようと思って、私は猿猴橋《えんこうばし》を渡り、幟町《のぼりちょう》の方へまっすぐに路《みち》を進んだ。左右にある廃墟《はいきょ》が、何だかまだあの時の逃げのびて行く気持を呼起すのだった。京橋にかかると、何もない焼跡の堤が一目に見渡せ、ものの距離が以前より遙《はる》かに短縮されているのであった。そういえば累々たる廃墟の彼方《かなた》に山脈の姿がはっきり浮び出ているのも、先程から気づいていた。どこまで行っても同じような焼跡ながら、夥《おびただ》しいガラス壜《びん》が気味悪く残っている処《ところ》や、鉄兜《てつかぶと》ばかりが一ところに吹寄せられている処もあった。
 私はぼんやりと家の跡に佇《たたず》み、あの時逃げて行った方角を考えてみた。庭石や池があざやかに残っていて、焼けた樹木は殆《ほとん》ど何の木であったか見わけもつかない。台所の流場のタイルは壊《こわ》れないで残っていた。栓《せん》は飛散っていたが、頻《しき》りにその鉄管から今も水が流れているのだ。あの時、家が崩壊した直後、私はこの水で顔の血を洗ったのだった。いま私が佇《たたず》んでいる路には、時折人通りもあったが、私は暫《しばら》くものに憑《つ》かれたような気分でいた。それから再び駅の方へ引返して行くと、何処《どこ》からともなく、宿なし犬が現れて来た。そのものに脅えたような燃える眼は、奇異な表情を湛《たた》えていて、前になり後になり迷い乍《なが》ら従《つ》いてくるのであった。
 汽車の時間まで一時間あったが、日陰のない広場にはあ
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