ぐような姿勢で打伏《うつぶせ》になっていたという話や、そうかと思うと瀬戸内海のある島では当日、建物疎開の勤労奉仕に村の男子が全部動員されていたので、一村|挙《こぞ》って寡婦となり、その後女房達は村長のところへ捻《ね》じ込んで行ったという話もありました。槇氏は電車の中や駅の片隅で、そんな話をきくのが好きでしたが、広島へ度々《たびたび》出掛けて行くのも、いつの間にか習慣のようになりました。自然、己斐駅や広島駅前の闇市にも立寄りました。が、それよりも、焼跡を歩きまわるのが一種のなぐさめになりました。以前はよほど高い建ものにでも登らない限り見渡せなかった、中国山脈がどこを歩いていても一目に見えますし、瀬戸内海の島山の姿もすぐ目の前に見えるのです。それらの山々は焼跡の人間達を見おろし、一体どうしたのだ? と云わんばかりの貌《かお》つきです。しかし、焼跡には気の早い人間がもう粗末ながらバラックを建てはじめていました。軍都として栄えた、この街が、今後どんな姿で更生するだろうかと、槇氏は想像してみるのでした。すると緑樹にとり囲まれた、平和な、街の姿がぼんやりと浮ぶのでした。あれを思い、これを思い、ぼんやりと歩いていると、槇氏はよく見知らぬ人から挨拶《あいさつ》されました。ずっと以前、槇氏は開業医をしていたので、もしかしたら患者が顔を憶えていてくれたのではあるまいかとも思われましたが、それにしても何だか変なのです。
最初、こういうことに気附いたのは、たしか、己斐から天満橋へ出る泥濘《ぬかるみ》を歩いている時でした。恰度《ちょうど》、雨が降りしきっていましたが、向うから赤錆《あかさ》びたトタンの切れっぱしを頭に被《かぶ》り、ぼろぼろの着物を纏《まと》った乞食《こじき》らしい男が、雨傘《あまがさ》のかわりに翳《かざ》しているトタンの切れから、ぬっと顔を現しました。そのギロギロと光る眼は不審げに、槇氏の顔をまじまじと眺《なが》め、今にも名乗をあげたいような表情でした。が、やがて、さっと絶望の色に変り、トタンで顔を隠してしまいました。
混み合う電車に乗っていても、向うから頻《しき》りに槇氏に対《むか》って頷《うなず》く顔があります。ついうっかり槇氏も頷きかえすと、「あなたはたしか山田さんではありませんでしたか」などと人ちがいのことがあるのです。この話をほかの人に話したところ、見知らぬ人から挨拶されるのは、何も槇氏に限ったことでないことがわかりました。実際、広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出そうとしているのでした。
[#地から2字上げ](昭和二十二年十一月号『三田文学』)
底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
1973(昭和48)年7月30日初版発行
1999(平成11)年5月25日38刷
初出:「三田文学」
1947(昭和22)年11月号
入力:tatsuki
校正:皆森もなみ
2002年1月1日公開
2006年2月5日修正
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