――鉄道が不通になったとか、広島の橋梁《きょうりょう》が殆ど流されたとかいうことをきいたのは、それから二三日後のことであった。

 私は妻の一周忌も近づいていたので、本郷町の方へ行きたいと思った。広島の寺は焼けてしまったが、妻の郷里には、彼女を最後まで看病《みと》ってくれた母がいるのであった。が、鉄道は不通になったというし、その被害の程度も不明であった。とにかく事情をもっと確かめるために廿日市駅へ行ってみた。駅の壁には共同新聞が貼《は》り出され、それに被害情況が書いてあった。列車は今のところ、大竹・安芸中野《あきなかの》間を折返し運転しているらしく、全部の開通見込は不明だが、八本松・安芸中野間の開通見込が十月十日となっているので、これだけでも半月は汽車が通じないことになる。その新聞には県下の水害の数字も掲載してあったが、半月も列車が動かないなどということは破天荒のことであった。
 広島までの切符が買えたので、ふと私は広島駅へ行ってみることにした。あの遭難以来、久し振りに訪れるところであった。五日市まではなにごともないが、汽車が己斐《こい》駅に入る頃から、窓の外にもう戦禍の跡が少しずつ展
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