。妻の一周忌も近づいていたが、どうかすると、まだ私はあの棲《す》み慣れた千葉の借家で、彼女と一緒に雨に鎖《と》じこめられて暮しているような気持がするのである。灰燼《かいじん》に帰した広島の家のありさまは、私には殆ど想い出すことがなかった。が、夜明の夢ではよく崩壊直後の家屋が現れた。そこには散乱しながらも、いろんな貴重品があった。書物も紙も机も灰になってしまったのだが、私は内心の昂揚《こうよう》を感じた。何か書いて力一杯ぶつかってみたかった。
 ある朝、雨があがると、一点の雲もない青空が低い山の上に展《ひろ》がっていたが、長雨に悩まされ通したものの眼には、その青空はまるで虚偽のように思われた。はたして、快晴は一日しか保たず、翌日からまた陰惨な雨雲が去来した。亡妻の郷里から義兄の死亡通知が速達で十日目に届いた。彼は汽車で広島へ通勤していたのだが、あの時は微傷だに受けず、その後も元気で活躍しているという通知があった矢さき、この死亡通知は、私を茫然《ぼうぜん》とさせた。
 何か広島にはまだ有害な物質があるらしく、田舎から元気で出掛けて行った人も帰りにはフラフラになって戻って来るということであっ
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