言い残すかもしれない無数のおもいは彼のなかに脈打っていた。妻はまた氷を欲しがった。それからまた吐き気を催し、ぐったりとしていた。
「もう少しすれば夜が明けるよ」
 かたわらに横臥して、そんなさりげないことを話しかけると、妻は静かに頷《うなず》く。そうしていると、まだ妻に救いが訪れてくるようで、もう長い長い間、二人はそんな救いを待ちつづけていたような気もした。そして、これは彼|等《ら》の穏やかな日常生活の一ときに還《かえ》ってゆくようでさえあった。だが、ふと吃驚《びっくり》したように妻は胸のあたりの苦しみを訴えだした。その声は今|迄《まで》の声とひどく異っていた。それは魔にうなされたように、哀切な声になってゆく。愕然《がくぜん》として、彼も今その声にうなされているようだった。病苦が今この家全体を襲いゆさぶっているのだ。
 彼が玄関を出ると、外は仄暗《ほのぐら》い夜明だった。どこの家もまだ戸を鎖《とざ》していたが、町医のベルを押すと、灯がついて戸は開いた。医者は後からすぐ行くことを約束した。
 家に戻って来ると、妻の苦悶《くもん》はまだ続いていた。「つらいわ、つらいわ」と、とぎれとぎれに声
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