しょう」と彼に来診を約束した。それから、大先生が来るということは彼の妻にとっては大変な期待となった。妻はわざわざ新しい寝巻に着替えて約束の時刻を待っている。彼は家の外に出て俥《くるま》の姿を待った。冷えて降りだしそうな暗い空に五位鷺《ごいさぎ》が叫んでとおりすぎる。そうして待ち佗《わ》びていると、ふと彼は遠い頼《たよ》りない子供の心に陥落されていた。俥がやって来たのは彼が待ち佗びて家に戻って来た後だった。大先生は妻の枕頭に坐って、丁寧に診察をつづける。羽毛をとりだして病人の足の裏を撫《な》でてみたり、ものなれた慎重な身振りだったが、鞄《かばん》から紙片をとり出すと、すらすらと処方箋《しょほうせん》を書いた。
「二週間分の処方をしておきますから、当分これを飲みつづけて下さい」
そうして、大先生は黙々と忙しそうに立上る。彼が後を迫って家の外に出ると、既に俥は走りだしている。それは何か熱いものが通過した後のようにぐったりした心地だった。さきほどまで気の張りつめていたらしい妻も、ひどく悲しく疲れ顔で押し黙っている。さきほど用意したまま出しそびれていた蜜柑《みかん》の罐詰《かんづめ》が彼の目に
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