吸《いき》づいているのだろうか。容態のおもわしくない妻は、もう長い間の病床生活の慣《なら》わしから、澄みきった世界のなかに呼吸《いき》づくことも身につけているようだった。だが、荒々しいものや、暴《あば》れ狂うものは、日毎《ひごと》その家の塀《へい》の外まで押し寄せていた。塀の内の小さな庭には、小さな防空壕《ぼうくうごう》のまわりに繁《しげ》るままに繁った雑草や、朱《あか》く色づいた酸漿《ほおずき》や、萩《はぎ》の枝についた小粒の花が、――それはその年も季節があって夏の終ろうとすることを示していたが、――ひっそりと内側の世界のように静まっていた。それから、障子の内側には妻の病床をとりかこんで、見なれた調度や、小さな装飾品が、病人の神経を鎮《しず》めるような表情をもって静かに呼吸《いき》づいているのだ。――そうして、妻が病床にいるということだけが、現在彼の生きている世界のなかに、とにかく拠《よ》りどころを与えているようだった。
 彼の呼吸づいている外側の世界は、ぼんやりと魔ものの影に覆《おお》われてもの悲しく廻転しているのだった。週に一度、電車に乗って彼は東京まで出掛けて行くのだが、人々の
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