次を這入《はい》って行くと、疲労感とともに吻と何か甦《よみが》える別のものがある。それが何であるかは彼には分りすぎるぐらい分っていた。
家を一歩外にすれば、彼には殆ど絶え間なしに、どこかの片隅《かたすみ》で妻の神経が働きかけ追かけてくるような気がした。寝たままで動けない姿勢の彼女が何を考え、何を感じているのか、頻《しき》りと何かに祈っているらしい気配が、それがいつも彼の方へ伝わってくる。どうかすると、彼は生の圧迫に堪《た》えかねて、静かに死の岸に招かれたくなる。だが、そうした弱々しい神経の彼に、絶えず気をくばり励まそうとしているのは、寝たまま動けない妻であった。起きて動きまわっている彼の方がむしろ病人の心に似ていた。妻は彼が家の外の世界から身につけて戻って来る空気をすっかり吸集するのではないかとおもわれた。それから、彼が枕頭《ちんとう》で語る言葉から、彼の読み漁っている本のなかの知織の輪郭まで感じとっているような気もした。
昨日も彼はリュックを肩にして、ある知りあいの農家のところまで茫々《ぼうぼう》とした野らを歩いていた。茫々とした草原に細い白い路が走っていて、真昼の静謐《せいひつ》はあたりの空気を麻痺《まひ》させているようだった。が、ふと彼の眼の四五|米《メートル》彼方《かなた》で、杉の木が小さく揺らいだかとおもうと、そのまま根元からパタリと倒れた。気がつくと誰かがそれを鋸《のこぎり》で切倒していたのだが、今、青空を背景に斜に倒れてゆく静かな樹木の一瞬の姿は、フィルムの一|齣《こま》ではないかとおもわれた。こんな、ひっそりとした死……それは一瞬そのまま鮮《あざや》かに彼の感覚に残ったが、その一齣はそのまま家にいる妻の方に伝わっているのではないかとおもえた。……農家から頒《わ》けてもらったトマトは庭の防空壕《ぼうくうごう》の底に籠《かご》に入れて貯《たくわ》えられた。冷やりとする仄暗《ほのぐら》い地下におかれたトマトの赤い皮が、上から斜に洩《も》れてくる陽《ひ》の光のため彼の眼に泌みるようだった。すると、彼には寝床にいる妻にこの仄暗い場所の情景が透視できるのではないかしらとおもえた。
……生暖かい底に不思議な冷気を含んだ風がうっとりと何か現在を追憶させていた。彼はその街にある小さな図書館に入って、ぼんやりと憩《いこ》うことが近頃の習慣となっていたのだ。
書物を閉じると、彼は窓際《まどぎわ》の椅子を離れて、受附のところへ歩いて行った。と、さきほどまで彼の頬に吹寄せていた生温かいが不思議に冷気を含んだ風の感触は消えていた。だが、何かわからないが彼のなかを貫いて行ったものは消えようとしなかった。閲覧室を出て、階段を下りて行きながらも、さきほどの風の感覚が彼のなかに残っていた。
それは沖から吹きよせてくる季節の信号なのだろうか。夏から秋へ移るひそかな兆《きざし》なら彼は毎年見て知っていた。だが、さきほどの風は、まるでこの地球より、もっと遙《はる》かなところから流れて来て、遙かなところへ流れてゆくもののようだった。その中に身を置いておれば、何の不安も苦悩もなく、静かに宇宙のなかに溶け去ることもできそうだ。だが、それにしても何かかなしく心に泌みるものがあるのはどうしたわけなのだろう。
(人間の心に爽やかなものが立ちかえってくるのだろうか。)もしかすると何か全く新しいものの訪れの前ぶれなのだろうか。……彼はまだ、さきほどの風の感触に思い惑いながら往来に出て行った。人通りの少ない、こぢんまりした路は静かな光線のなかにあった。煉瓦塀《れんがべい》や小さな溝川《みぞがわ》や楓《かえで》の樹などが落着いた陰翳《いんえい》をもって、それは彼の記憶に残っている昔の郷里の街と似かよってきた。
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ほとんど総《すべ》ての物から 感受への合図が来る。
向きを変える毎《ごと》に 追憶を吹き起す風が来る。
何気なく見逃《みの》がして過ぎた一日が
やがて自分へのはっきりとした贈りものに成って蘇る。
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いつも頭に浮ぶリルケの詩の一節を繰返していた。
その春、その街の大学病院を退院して以来、自宅で養生をつづけるようになってからも、妻の容態はおもわしくなかった。夜ひどい咳《せき》の発作におそわれたり、衰弱は目に見えて著しかった。だが、彼の目には妻の「死」がどうしても、はっきりと目に見えて迫っては来なかった。その部屋一杯にこもっている病人の雰囲気《ふんいき》も、どうかすると彼には馴《な》れて安らかな空気のようにおもえた。と、夏が急に衰えて、秋の気配のただよう日がやって来た。その日、彼女の母親は東京へ用足しに出掛けて行ったので、家の中は久しぶりに彼と妻の二人きりになっていた。
寝たままで動けない姿勢で、妻は彼
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