た。あのような奇怪な絶望のはての娯《たの》しい旅へ出られたら、――それはこの頃二人に共通する夢でもあった。じりじりと押迫って来る何か不吉なものが、今にもこの小さな生活を覆《くつがえ》しそうな秋であった。台所の硝子戸にドタンと風のあたる音がして、遠くの方にヒューッと唸《うな》る凩《こがらし》の音がする。電車が軋《きし》りながらすぐ近くの小駅に近づいて来る。不思議に外部のもの音が心に喰込《くいこ》んで来る。すると急に電灯のあかりが薄暗く感じられ、見慣れた部屋の壁の色がおそろしく冴《さ》えているのだ。ここには妻の一日の憂鬱《ゆううつ》がすっかり立籠《たちこも》っている。妻もまたこの二三年を病の床で暮し、来る日来る日をさびしく見送っているのだった。日によって、頬《ほお》が火照ったり、そうして、その後ではきっと熱が高かったが、些細《ささい》なことがらがひどく気に懸《かか》ることがある。かと思うと、ふと爽《さわ》やかな恢復期《かいふくき》の兆《きざし》が見えたりして、病気は絶えず一進一退していた。寝たままで、女中のたつを口で使っていたが、おつかいから帰って来るたつは、変動してゆく外の空気をいつも妻
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