けいれん》する老人が彼の方に近づいて来そうであった。

『ベルリン――ロオマ行の急行列車が、ある中位な駅の構内に進み入ったのは、曇った薄暗い肌《はだ》寒い時刻だった。幅の広い、粗天鵞絨《あらびろうど》の安楽椅子にレエスの覆《おお》いを掛けた一等の車室で、或る独《ひと》り旅《たび》の客が身を起した――アルブレヒト・ファンクワアレンである。彼は眼を醒《さ》ましたのである』
 夕食後、彼は妻の枕許《まくらもと》でトオマス・マンの「衣裳戸棚《いしょうとだな》」の冒頭を暗誦《あんしょう》してきかせた。女中のたつは通いで夜は帰って行ったから、その部屋はいま二人きりの領分であった。病気の妻はギラギラと眼を輝かし、彼の言葉に耳傾けていたが「絶唱だね」と彼がつけ加えると、それが他人の作品だと分り多少あきたらない面持にかえったが、猶《なお》も彼の意中をさぐろうとするように、凝《じっ》と空間を見詰めている。長い間、彼は何も書こうとしないが、まだ書こうとする熱意を喪《うしな》ってはいないのだろうか――そう妻は無言のうちに訊《たず》ねているようであった。だが、それはそれとして、妻も「衣裳戸棚」の旅の話を知ってい
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