た。だが、このもの音を区切りにやがてあたりの状態は少しずつ変って行く。バタンと乱暴に戸の開く音がして、けたたましい声で前の家の主婦は喋《しゃべ》りだす。すると、もう何処《どこ》でも夕餉《ゆうげ》の支度《したく》にとりかかる時刻らしかった。雨は歇《や》んだようだが、廊下の方に暮色がしのびよって来て、もう展《ひろ》げた紙の上にあった微妙な美しい青も消え失せている。手を伸べて、スタンドのスイッチを捻《ひね》ればよさそうであったが、それさえ彼には躊躇された。薄暗くなる部屋に蹲《うずくま》ったまま、彼はじりじりともの狂おしい想いを堪《た》えた。ものを書こうとして、書こうとしては躊躇し、この二三年をいつのまにか空費してしまった彼は、今もその躊躇の跡をいぶかりながら吟味しているのであったが、――時にこの悶えは娯《たの》しくもあったが、更により悲痛でもあったのだ。「黄昏《たそがれ》は狂人たちを煽情《せんじょう》する」とボオドレエルの散文詩にある老人のように、失意のうちに年老いてじりじりと夕暮を迎えねばならぬとしたら、――彼はそれがもう他人事《ひとごと》ではないように思えた。「マルテの手記」にある痙攣《
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