じめるなら今だ。今なら深い文章の脈が浮上って来るであろう。だが、何故《なぜ》かすぐにペンを紙の上に走らすことは躊躇《ちゅうちょ》された。西洋紙は視《み》つめているほどに青味を帯びて来て、そのなかには数々の幻影が潜んでいそうだ。弱々しく神経を消耗させて滅びて行く男の話、ものに脅えものに憑《つ》かれて死んでゆく友の話、いずれも失敗者の姿ばかりが彼の心には浮ぶのであった。……時雨に濡《ぬ》れて枯野を行く昔の漂泊詩人の面影がふと浮んで来る、気がつくと恰度《ちょうど》ハラハラと降りだしたのである。そして今、露次の方に跫音《あしおと》がして、それが玄関の方へ近づいて来ると、彼はハッとして、きき慣れた跫音がその次にともなう動作をすぐ予想した。やがて玄関の戸がひらき、牛乳壜《ぎゅうにゅうびん》を置く音がする。かすかにかち合う壜の音と「こんちは」と呟《つぶや》く低い声がするのである。彼はずしんと、真空に投出されたような気持になる。微《かす》かにかち合う壜の音がまだ心の中で鳴りひびき、遠ざかって行く跫音が絶望的に耳に残る。それは毎日|殆《ほとん》ど同じ時刻に同じ動作で現れ、それを同じ状態の下にきく彼であっ
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