で中学の門へ這入って行く。そうして、その小さな門を潜《くぐ》った瞬間から、ともかくあの書斎からつき纏って来たものと別れることが出来た。だが、そのかわり今度は更に錯綜《さくそう》した視線の下に彼は剥出《むきだ》しで晒《さら》されるのであった。
 ――その夜、睡《ねむ》ろうとすると、鼻腔《びこう》にものの臭《にお》いがまだしつこく残っているのを彼は感じたが、たしかそれは今日の昼間、小使室で弁当を食べた時|嗅《か》いだものに他《ほか》ならなかった。その日、はじめて彼も教員室へ入ったが、そこにはいろんな年配のさまざまの容貌《ようぼう》をした教師たちが絶えず出入していた。弁当の時間になると、日南の狭い小使室に皆はぞろぞろと集っていた。彼はその部屋の片隅で、佗しいものの臭い――それは毛糸か何かが煉炭《れんたん》で焦げるような臭いであった――を感じた。家へ戻ると早速《さっそく》、彼はその臭いの佗しさを病妻に語った。妻は頬笑《ほほえ》みながら「そんなに侘しいのなら、勤めなきゃいいでしょう」と労《いた》わるように云った。長い間、人なかに出たことのない彼にとっては、人間の臭いの生々しさが、まず神経を掻き乱
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